前衆議院議員 大畠章宏

国会質疑

衆議院:憲法審査会()

日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件

大畠会長  これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に日本国憲法の各条章のうち、第三章の論点について調査を進めます。

 本日の議事について申し上げます。

 まず、衆議院法制局当局から説明を聴取し、その後、各委員からの意見表明等を含む自由討議を行うことといたします。

 それでは、衆議院法制局当局から説明を聴取いたします。衆議院法制局法制企画調整部長橘幸信君。

橘法制局参事  衆議院法制局の橘でございます。

 前回に引き続きまして、今回は、第三章国民の権利及び義務の章につきまして、お手元配付の資料に基づき、その主要論点について御報告をさせていただくことになりました。よろしくお願い申し上げます。

 申し上げるまでもなく、人権保障規定は憲法の最も中核的な規定でございます。この点を端的にあらわすものとして、まず冒頭、内外二つの事例を御紹介申し上げたいと存じます。

 一つは、フランス人権宣言の規定でございます。一七八九年のフランス人権宣言十六条では、権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない全ての社会は、憲法を有しないと定めて、近代憲法の核心が人権保障と権力分立であることを端的に述べています。

 もう一つは、大日本帝国憲法制定時における、伊藤博文と、初代文部大臣として有名な森有礼の論争でございます。

 明治憲法第二章の臣民の権利義務に対して、森有礼は、臣民は、天皇に対して、責任は持っているが権利などは持っていないとして、臣民の権利という文言ではなく、臣民の分際とすべきと主張したそうでございます。これに対して伊藤博文は、森氏の説は憲法学及び国法学に退去を命じたるの説と言うべし、そもそも、憲法を創設するの精神は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保護するにあり、ゆえに、もし憲法において臣民の権利を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くる必要なしとして、憲法から臣民の権利を除けば、それは憲法ではなくなると述べて反論したそうでございます。結局、伊藤博文の説が採用されたわけです。

 それほどに、憲法における人権保障規定の重要さは、洋の東西を問わずに認識されてきたものと言えるかと存じます。

 さて、以上を踏まえつつ、本日のテーマでございます第三章国民の権利及び義務に定められております第十条から第四十条までの三十一カ条の規定を眺めますと、この章は、判例の積み重ねも大変多うございまして、実に多くの論点が含まれている分野でございます。

 それらを念頭に置きつつも、ここでは、これまでと同様に、あくまでも、衆議院憲法調査会の報告書を初めとする、国会でのこれまでの憲法論議及び各党各会派の憲法提言等で取り上げられてまいりました条文を中心に、分類、整理いたしました。同時に、幹事会での御指摘、御示唆を踏まえながら、先生方の自由討議が濃密かつ効率的に行われることに資するため、大きく四つに分類して御報告申し上げたいと存じます。

 お手元配付のA3縦長の一枚紙、論点表をごらんいただければと存じます。

 すなわち、第一は、人権総論に位置づけられます人権の調整、制約原理としての公共の福祉と、これに関して議論されることになる国民の義務について。第二は、これまでの国会での権利義務に関する議論の大半を占めてまいりました、いわゆる新しい人権について。第三は、そのほかに、これまでの憲法論議において御議論が多かった人権条項に関する論点を四つほど抽出し、これらについて御報告申し上げたいと存じます。そして最後に、これら以外の第三章の条項に関する論点についても簡潔に御報告させていただきたいと存じます。

 まず、第一の論点、公共の福祉についてでございます。

 この概念については、学説の通説的見解によれば、人権相互の矛盾、衝突を調整するための実質的公平の原理を意味するもの、このように理解されているところでございます。

 しかし、これに対しては、従来から次のような御批判があるところでございます。

 例えば、人権を制約する根拠となるのは必ず他の者の人権でなければならないとの前提は、人権という概念をよほど拡張的な意味に用いない限り理解が困難である。例えば、表現の自由を規制する根拠として持ち出される町の美観や静穏、性道徳の維持、電波の混信の防止などといったものは、いずれも個々人の権利に還元されないものであり、社会全体の利益としてしか観念し得ないのではないか。あるいは、公共の福祉を人権相互の矛盾調整のための原理とする学説の影響で、国家や国民全体の利益のために人権を制限することに過度に抑制的な対応がなされているのではないか。このような御批判でございます。

 また、そもそも公共の福祉という表現そのものがパブリックウエルフェアの翻訳であり、人権相互の調整、制約原理をあらわす日本語として、ややミスリードではないかとの御批判もあるようでございます。

 このような問題意識を背景にしつつ、公共の福祉の概念について、人権制約の一般的原理にふさわしい別の表現、例えば、公益及び公の秩序といった表現に改めるべきではないかとする御見解がAの欄の御見解です。

 これに対して、そのような表現変更は不要であり、必要かつ合理的な人権相互の調整、制約は、現在でも公共の福祉の概念のもとで国会が定める法律によって行われており、今後ともそのような方式でよいとするのがBの欄の御見解でございます。また、Cの欄の見解は、法律による人権制約は必要最小限度であるべきとする点を強調して、現行のままでよいとする御見解かと存じます。

 次に、国民の義務に関する議論です。

 現行憲法には、その保護する子女に教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務のいわゆる三つの国民の義務規定が定められております。

 これに対しては、現行憲法は権利一辺倒で義務意識や規範意識が希薄であるとか、あるいは、権利の行使には義務の履行が伴うことを憲法において明確にするべきであるとして、新たな義務規定の創設を求める見解がございます。これがA1の見解であり、そこで挙げられる具体的な義務規定としては、国防の義務、環境保全の義務、投票の義務などがございます。これに対してA2は、そのような権利の反面としての義務という強い規定ではなくて、より緩やかな、規範意識というような意味での責任あるいは責務という形で、例えば国民の環境保全の責務のようなものを規定するのが適切ではないかとする御見解でございます。

 これらの明文改憲の御主張に対しては、近代立憲主義における憲法の意義は、公権力に対する縛りという制限規範という点にこそあるのであって、憲法が権利一辺倒であるのはそもそも当然のことであるとして、国民の義務や責務のようなものは、それが必要なのであれば法律ベースで定めればよいとするのがBの御見解でございます。さらに、明文改憲も特段の立法措置も必要ないとするのがCの欄の御見解です。

 大きな二番目は、いわゆる新しい人権に関する御議論です。

 この論点につきましては、まず、憲法の人権保障の規定には、現行憲法九十七条自体が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であると述べていることなども踏まえて、時代の変化に対応して、この人権のカタログを豊富化していくことが望ましい、またそれこそが憲法の要請するところであるとして、このような認識を背景とし、明文改憲を主張するAのお立場がございます。

 これに対して、我が日本国憲法は、人権保障に関する一般的、包括的な規定として第十三条を持っている、新しい人権と言われるものは、この十三条の定める幸福追求権の具体化として解釈上導き出すことができるのであるから、このような解釈を前提として立法措置を講ずれば足りるとするBのお立場、さらには、十三条に既に含まれているのであるから、立法措置を講ずる必要もないとするCのお立場もございます。

 なお、一般的に主張されることが多い新しい人権としては、環境権、知る権利あるいはアクセス権、プライバシー権あるいは自己情報のコントロール権、犯罪被害者の権利などがございますが、ここでは、最もよく議論の俎上に上ります環境権に関する御議論を簡単に御紹介申し上げさせていただきたいと存じます。

 まず、国民の良好な環境を享受する権利を憲法に明記するべきであるとするのがA1の立場です。

 これに対して、同じ明文改憲の御主張でも、良好な環境というものについて、これを大気や水といった自然環境に限定する考え方もあろうし、他方、遺跡や寺院などのような文化的、社会的環境まで含める考え方もあり、人それぞれによって違うのではないか、少なくとも現時点では、これを個人の権利として規定することは適切ではないのではないか、むしろ、規定するのであれば、ドイツの基本法二十a条のように、国家の環境保全の責務という国家目標規定として定めるのが適切ではないかとする見解がA2のお立場かと存じます。

 そして、このA2の立場において、国家の義務あるいは責務というだけではなく、国民の義務あるいは責務としても定めるべきであるとする見解は、第二の論点として先ほど言及いたしました国民の義務、責務の論点と関係してくることになります。

 なお、このように、国民の権利として規定するべきか、それとも国家や国民の責務として規定するべきかという論点は、次の知る権利などについてもございます。すなわち、知る権利という形で国民の側の権利として定式化するのか、それとも政府の説明責任といった形で定式化するのかといったぐあいでございます。

 三番目は、これまでの憲法論議において御議論の多かった、その他の人権条項に関する論点として、四つほど論点表に掲げております。

 まず、生命倫理に関する御議論です。

 これは、遺伝子工学等の発達により、それらの学問、研究は、時として生命の尊厳や生命倫理と緊張関係を生ずる場合が出てまいります。そこで、スイス憲法等の規定に倣って、学問の自由といっても決して無制限なものではない、特に、生命の尊厳を侵害するような生命操作の禁止、遺伝情報へのアクセス規制などを憲法に明記するべきであるとする見解がAの欄のお立場であります。

 これに対して、そのようなことは公共の福祉による人権制約として、法律でもって規定すれば足りるとするのがBの欄のお立場です。

 二つ目として、政教分離原則に関する御議論がございます。

 現行憲法は、二十条一項の後段で、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と規定するとともに、同条三項では、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と定めて、いわゆる厳格な政教分離を定めていると言われているところでございます。

 しかし、国家と宗教の厳格な分離といっても、その一切のかかわりを排除するものではなく、最高裁判所におきましても、まず第一に、その行為が世俗的な目的のものであること、第二に、その行為の主要な効果が特定の宗教を助長したり、逆に圧迫したりするものでないこと、このような条件を満たす場合には、二十条三項で禁止される宗教的活動には該当しないと判示しているところです。いわゆる目的効果論と言われる判断基準です。しかし、具体的にどのような行為が許容され、あるいは禁止されるのかについては御議論があるところでございます。

 また、毎年八月になりますと、首相初め国務大臣などの靖国神社の公式参拝の可否、適否が政治的にも問題となってきたことは先生方御承知のとおりでございます。

 このような問題意識を背景といたしまして、明文改憲を主張する御見解としては、厳格な政教分離を前提として、これをこのまま憲法に明文化すべきであるとするA1の見解と、これとは逆に、一般的な習俗的行事や社会的儀礼に属する行為については、広く憲法上許容されるように明文の規定を設けるべきであるとするA2の見解がございます。

 もちろん、現在のままでよいとするCの見解もございます。

 三つ目として、家族、家庭や共同体に関する御議論がございます。

 現行憲法は余りに個人主義的に偏しているとして、社会の基礎としての家族や家庭の重要性を再認識し、家族間における相互扶助、家庭教育等の家族や家庭が果たしてきた機能を再構築するためにも、家族や家庭の尊重及び国家によるその保護の規定を憲法に設けるべきであるとするAの欄の御主張がございます。

 これに対して、家族や家庭に関する事項は、近代憲法が峻別してきた公と私、公、パブリックと、私、プライベートのうち、後者に属するものであり、それは私人の自由な領域に任せておくべき事項であること、また、家族や家庭の尊重のような道徳的な事項は憲法に書き込むべきではないことなどを理由として、現行のままでよいとするCの欄の御主張もございます。

 最後は、知的財産権に関する御議論です。

 現行憲法では、二十九条に財産権一般の保障規定がございますが、知財立国としての我が国の立場を憲法上明記する観点からも、知的財産権については特記するのが望ましいというAの欄の御主張がございます。

 これに対しては、知的財産基本法等の法律ベースで措置すればよいとするBの御主張もございます。

 最後に、以上、御報告申し上げました論点に係る条文以外の第三章の条項に関する論点について、ごく簡潔に御報告申し上げます。

 ここにも重要な条項が幾つも並んでおります。

 例えば、第十四条の法のもとの平等に関する規定は、立法過程においても裁判においても頻繁に引用され問題となる条文でございますが、国会論議におきましても、女性などの社会的弱者に対して優遇措置を講ずることにより実質的平等を図ろうとする、いわゆるアファーマティブアクション、積極的是正措置の議論や、議員定数不均衡、いわゆる一票の格差の是正の問題などが議論されております。

 また、二十五条の生存権条項につきましては、健康で文化的な最低限度の生活の保障規定が昨年の三・一一以降の大震災による被災のもとにおいてどのような意味を持っているのか、憲法の理念は本当に実現されているのか。さらに第二十七条、二十八条の労働基本権をめぐりましても、現下の厳しい雇用状況のもとにおいて、憲法の定める勤労の権利はどのようなものとして保障されているのか、働きたくとも仕事がないのでは、勤労の義務など果たすことはできないのではないのかとの言説すらある状況をどう考えるべきかといった議論があり得るところです。

 さらに、三十一条から四十条のいわゆる刑事手続上の権利をめぐっては、加害者である刑事被告人の権利はあるけれども犯罪被害者の権利がないではないかといったことに関する御議論は、新しい人権の欄にも掲載している事項でありますが、そのほかにも、第三十一条の適正手続条項の射程距離の問題や、第三十二条の裁判を受ける権利と裁判員制度、第三十六条の残虐な刑罰禁止と死刑制度の存廃の論点などもあるかと存じます。

 以上は、いずれも明文改憲の要否という視点とは別の観点からの論点ではありますけれども、国会の内外においてさまざまな議論が行われてきている重要な論点と言えるかと存じます。

 以上、憲法第三章国民の権利義務に関する主要論点につきまして御報告させていただきました。

 駆け足で大変大ざっぱな御報告になってしまいましたが、以上でございます。ありがとうございました。

大畠会長  以上で衆議院法制局当局からの説明聴取は終わりました。

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大畠会長  これより各委員からの意見表明等を含む自由討議に入ります。

 この自由討議につきましては、幹事会の協議に基づき、まず、各会派を代表する委員が順次発言を行い、その後、各委員が自由に発言を行うことといたします。

 それでは、まず、各会派を代表する委員の発言に入ります。

 発言時間は七分以内とし、その経過につきましては、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせをいたします。

 発言は自席から着席のままで結構でございます。

 発言の申し出がありますので、順次これを許します。大谷信盛君。

大谷(信)委員  おはようございます。民主党、大谷信盛でございます。

 本日の論点であります国民の権利義務に関しまして、民主党の基本的な考え方を紹介させていただく形で発言にかえさせていただきます。

 基本的人権をめぐる問題に関して、私たちは、従来の個人の権利対国家、公共への義務という対立の図式ではなく、後者を強調しようとする改憲論とは一線を画してまいりました。

 そんな中、人間の尊厳に基づき、人権や環境を守るための連帯、コミュニティー実現に向けた共同の責務という新しい考え方を提案させていただいております。

 以下、簡単に、人間の尊厳尊重、そして共同の責務の確立を目指した項目について御紹介をさせていただきます。

 一つ目の考え方として、人間の尊厳を尊重するということがございます。

 人間は自然の一部であり、命があり、自由な主体性を持っているがゆえに尊厳がある。人間の尊厳を尊重することは、自然を守り、命あるものを守り、他者の自由な主体性を守ることであります。

 これを基礎として、現行憲法に明記されている人権保障を踏まえて、さらに新しい時代にふさわしいものへと進化させていく必要があると考えています。

 日本国憲法の根本であります、一つであります基本的人権の尊重を、抽象的な権利の主張としてではなく、日本社会に暮らす一人一人の人間としての尊厳を具体的な権利の主張として受けとめる必要があります。とりわけ、人間の尊厳を破壊する暴力については、国家と個人の関係はもとより、個人と個人との私的な関係においても、これを厳格に禁止すべきであるとしております。

 このような普遍的な考えの上に立ち、特に、以下、三つの人権にかかわる規定を置くことを提言させていただいております。

 一つは、生命倫理及び生命に対する権利を明確にすること。二つ目、あらゆる人間の尊厳を破壊する個人的、社会的暴力からの保護を明確にすること。三つ目、犯罪被害者の人権を擁護すること。四つ目、子供の権利と子供の発達を保障すること。五つ目、外国人の人権を保障する。六つ目、信教の自由を確保し、政教分離の原則を厳格に維持すること。七番目、あらゆる差別をなくし、実質的な人権保障を実現する規定を検討してまいること。そして八つ目、人権保障のための第三者機関を設置するというようなことでございます。

 そして、大きな二つ目の考え方として、共同の責務、コミュニティーに参加をすることでしっかりと社会の責任を果たしていこうという考え方でございます。

 権利だけで社会は維持できません。だからといって、義務を強調することだけで社会の統合力が高まるというものでもありません。納税の義務、法に従う義務などが法的拘束力のある義務として一般に挙げられています。しかしながら、環境保全の場合のような社会的広がりを持つ社会共通の切実な課題については、国、地方公共団体、企業その他中間団体、及び家族、コミュニティーや個人の協力がなければその目的を達成し得ることはできません。

 これらの課題に挑戦するものとして、国民の義務という概念にかえ、共同の責務という考えを提示してきました。

 今、地域や国、そして世代の対立を超えて、人権あるいは環境について、これらを良好に維持していく責務を共同で果たし、そして互いに権利を思いながら暮らしていける社会の実現を目指していきたい。

 そして、これに関して五つの提言をさせていただいております。

 一つ目が、環境優先の思想を宣言すること。二つ目、人権、環境の維持向上のための共同の責務、国や企業その他中間団体並びに家族やコミュニティー、国民の責務を明確にしていくということ。三つ目、現在生きる人の利害だけでなく、将来世代、次世代に対する責務、未来への責任という概念を明確に提示していくこと。四つ目、公共のための財産権の制約を明確にすること。五つ目、曖昧な公共の福祉を再定義することなどを提言させていただいております。

 そして、基本的な三つ目の考え方として、情報社会と価値意識の変化に対応する新しい人権を確立するということを提言させていただいています。

 日本国憲法は人権に関するすぐれた規定を設けています。しかしながら、急激な社会変化や価値観の変容に伴って、憲法制定時には予想していなかった権利や利益を保障することが必要と指摘されている今日において、二十一世紀の新たな時代に求められる新しい権利の構築と憲法上の位置づけについて整理していく必要があるというふうに提言をさせていただいています。

 その中で、簡単に五つの提言をさせていただいております。

 一つ目が、国民の知る権利を憲法上の権利として、行政機関や公共性を有する団体に対する情報アクセス権を明確にしていくこと。二つ目、情報社会に対応するプライバシー権を確立していくということ。三つ目、情報社会におけるリテラシー、読み解く能力を確保し、対話の権利を保障すると同時に、学習権の概念を確立していくこと。四つ目、勤労の権利を再定義し、自由な労働市場の確保や職業訓練機会の保障等、国や社会の責務を明確にすること。五つ目、知的財産権を憲法上に明記していくことでございます。

 もう一つの基本的な考え方としては、国際人権保障の確立などがございます。

 簡単に、これまで提言してきている特徴を述べるならば、自助、公助また互助という考え方の中で、特に互助、コミュニティーであったり人間の尊厳であったり、しっかりと地域が支え合う、そういう友愛精神のもとに、しっかりとコミュニティーをつくってそこに参加をしていく。貧しい人がいたならば、その人に一定の物資、お金というものを与えるだけでなく、その人がしっかりと稼げる、その人がしっかりとコミュニティーの中で責任を果たしていけるような、能力を分け与えられるような、そういう人間の尊厳、その人の求めている幸せというものをしっかりとつくれるような能力を与えていく、ケーパビリティーのようなものを重要視してきたのが民主党の憲法提言の特徴だというふうに考えます。

 この後は、また自由討議の時間をいただきまして、御紹介また提言をさせていただきたいというふうに思います。

 以上です。

大畠会長  次に、近藤三津枝君。

近藤(三)委員  自由民主党の近藤三津枝です。

 国民の権利義務について、党を代表して、お手元の論点表をもとに、自民党の日本国憲法改正草案を紹介する形で意見表明させていただきます。

 まず、公共の福祉についてです。

 現行憲法にあります公共の福祉とは具体的にどのようなことを指すのか、わかりにくい文言です。公共の福祉とは、次のようなことを意味するものと考えます。個人と個人が権利を互いが主張し合うばかりでは折り合いがつかない、そこでこれを調整する働き、機能が公共の福祉と言えるのではないでしょうか。

 しかし、憲法によって保障される基本的人権については、個人と個人の権利を調整するというだけではなく、場合によっては個人の基本的人権と公の利益が衝突する場合があります。そして、当然、個人の基本的人権よりも公益が優先され、制約されることもあり得ます。そのことをより明確にするために、自民党の憲法改正草案では、公共の福祉という文言を、公益または公の秩序という表現にすべきとしています。つまり、論点表ではAになります。

 次に、自民党の憲法草案では、具体的な国民の義務規定をふやしていません。ただし、前文において、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、」と規定し、また、第九条の三において、国は国民と協力して領土などを保全すると定めています。つまり、国民が国を守る責任のことを緩やかに規定しました。

 次に、いわゆる新しい人権についてです。

 現在の憲法が昭和二十二年に施行されてから六十五年となります。この間の時代の変化に応じて新たな人権規定を定め、国民の権利保障を一層充実していくことが必要となっています。欧米諸国は、戦後六十七年、何回となく憲法改正を行っています。とりわけ、同じ敗戦国であるドイツは五十八回、イタリアは十五回、時代に即した人権規定を盛り込むなどの憲法改正を行っています。憲法改正を行っていないのは、ひとり我が国だけと言っても過言ではありません。

 もちろん、憲法改正を数多く行っていることがいいことだと単純なことを申し上げているつもりはありません。しかし、これだけ国内外の状況が大きく変化しているのに、国家の基本的なよりどころとなる憲法が一度も改正されずに憲法解釈だけで対応しようとしているのは、やはり少々異常なのではないでしょうか。

 新しい人権としては、環境権、知る権利、プライバシー権、犯罪被害者の権利が挙げられます。これらはいずれも、憲法制定当時、昭和二十二年には想定されなかった権利ではないかと考え、これらの権利はいずれも憲法に規定を設けるべきであります。

 一方で、このような権利は、憲法に規定しなくても法律で保障すればよいという意見もあります。しかし、憲法に新たに国民の権利を規定することによって、国会の議決による法律改正だけで国民の権利を廃止することはできなくなります。憲法に定めることにより、国民の権利を確実なものとする、そのような決定的な違いがあることを私たちは認識しなければなりません。

 なお、論点表にある環境権については、憲法に国民の権利の形で規定するのか、それとも国の責務の形で規定するのか、議論があります。環境を保全するのは、国民の権利として環境権を規定するだけで達成できるものではありません。国家と国民が対立関係に立つのではなく、国家と国民がともに協力して環境保全を実現していくべきです。このため、環境権については、国民の権利ではなく、国家と国民の責務の形で規定するべきと考え、自民党の憲法草案では、環境保全について、国民に協力を求める規定も定めています。以上、論点表では、環境権についてはA2となります。

 生命倫理について、我が党の憲法改正草案では特に規定を置いていません。現行法でもクローンに関する法規定が定められているので、法改正などによる立法措置によって対応していくべきと考えます。論点表のBの立場です。

 政教分離原則については、地方公共団体などによる地鎮祭への玉串料の支出など、ごく一般的な社会的儀礼、習俗的行為の範囲を超えないものについては、公共性のある行為として公費の支出が認められるべきと我が党は考えます。これについてはこれまでも裁判が起きていますが、このような憲法上の疑義、混乱が生じないよう、憲法にきちんと定める必要があると考えています。以上、論点表ではA2の立場です。

 次に、家族、家庭は、社会の基礎的な単位であること、そして世界人権宣言十六条三項でも家族に関する規定が定められていることを踏まえ、憲法に規定することがふさわしいものと考え、論点表のAの立場です。

 以上、申し上げたほか、我が党の憲法改正草案では、知的財産権について新たに規定を定めました。また、選挙権については国籍条項を設け、外国人への地方参政権は憲法上認めないことを明確にしています。

 最後に、私は特に在外国民の保護について申し上げたいと思います。

 昭和六十年三月、イラン・イラク戦争の際、イラクは、イラン上空を飛行する民間機を含むあらゆる航空機を攻撃すると一方的に通告しました。このため、テヘランの外国人は限られた時間の中でそれぞれ自国の飛行機で脱出しましたが、日本からは救援機が来ませんでした。そのとき助けてくれたのがトルコだったのです。

 私はこのときのことが頭にこびりついています。グローバル化が進む現在、国際社会で頑張る日本人の安全をしっかり本国が守る義務、在外邦人の保護に関する規定を憲法に設けるべきです。

 以上、自由民主党を代表して、意見表明といたします。

大畠会長  次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員  公明党の赤松正雄でございます。

 国民の権利及び義務に関する第三章をめぐっての、公明党の、過去における中間報告を経て、今日の時点での検証作業状況を申し上げます。

 結論から申し上げますと、国民の権利と公共の福祉とのかかわりを論じたところや国民の義務を定めた条文を合わせて七つにつきましては現行のままでよく、明文改憲も法律上の新たな措置も必要ない、こういう立場であります。

 次に、いわゆる新しい人権を明記すべきではないかとの論点をもたらす十三条、二十一条、二十五条をめぐっては、私どもは、かねて主張しておりますように、環境権の明記が必要だとの考えを持っております。

 さらに、生命倫理に関する昨今のさまざまな動きを見るにつけ、何らかの歯どめを置く必要があるのではないか、つまり十三条、二十三条の改正という形をとるか、あるいは新たに条文を起こすか、こういう必要があるとの考え方が強くなってきているということを申し述べておきたいと思います。

 それ以外の条文につきましては、特段の異論は今日までなく、現行のままでよいとの意見が支配的であります。

 その上で、若干の論点につきまして、現行憲法の施行状況を点検したいと思います。

 まず、環境権の明記については、環境状況の変化と、次世代の人々のために、地球規模の生存権といったものを、人類益、地球益の視点から憲法に明記すべきだとの意見が我が党には強くあります。

 現行憲法では、環境という語句もなく、もちろん環境権に関する規定もありません。個人の尊厳や人権といった概念だけでは把握できないし、十三条の幸福追求権あるいは二十五条の生存権からも、導き出すということには無理があろうかと考えます。

 環境権について、若干の経緯といいますか前史、今までの歴史を述べたいと思います。

 一九七〇年、昭和四十五年の三月に開催された国際社会科学評議会の環境破壊常置委員会主催のシンポジウムで採択された東京決議、そこで提唱されたり、あるいは同じ年に大阪弁護士会が環境権の確立を提唱したのが、我が国の環境権にまつわる議論の発端とされています。

 その後、こうした環境権を根拠として、空港あるいは新幹線、工場などの事業の差しとめ請求などが提訴をされましたが、正面から環境権を認めた判例は存在していません。

 一九九三年に定められた環境基本法の第三条における基本理念において、環境を健全で恵み豊かなものとして位置づけることが人間の健康で文化的な生活に欠くことができないものであること、また、現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受することができるようにしなければならないことを規定したところでありまして、これによって、いわゆる環境権の趣旨についてはこの法案に的確に位置づけられているというものが当時からの政府の見解で、これは今も変わっておらぬものと思われます。

 そうした法律の規定があるから、現状でよく、憲法においては、十三条、二十五条を根拠にして、国に環境保全の施策を求める綱領的な権利として、つまり、いわゆるプログラム的権利として認められると解釈する見解が多くあると見られます。

 ところで、今から四十年前、一九七二年、つまり昭和四十七年に、各国が地球環境の破壊防止に責任を負うとしたストックホルム人間環境宣言が採択されて以来、憲法に環境権を盛り込む国が急増してきたことは事実であります。

 その背景には、この四十年間に環境破壊が大きく進んできているということが挙げられます。特に、温暖化がもたらす気候変動は、リスクから無縁である地球上の場所は、長い目で見るとどこにもないということを象徴しています。

 時あたかも、ブラジルのリオデジャネイロで、この六月二十日から、国連持続可能な開発会議、リオ・プラス20が始まります。地球という社会に生き続けるために、多くの国が真剣に、環境と開発、あるいは環境と成長と言ってもいいかと思いますが、その共存共栄の道を模索する動きがいや増して本格化してきております。

 今や、環境権条項は世界標準になりつつあると言えます。私どもは、そうした状況に鑑み、環境権を憲法に加え、まずは、国家の環境保全の義務を明確にすることには大変大きな意義があると考えます。

 次に、生命倫理につきましては、二〇〇〇年に制定されたヒトクローン技術規制法を想起する必要があります。

 遺伝子情報の解析やクローン技術の進展などは、生命を操作することに直結し、人間の尊厳や生命の重要性を侵す危険性があります。

 ここでも、二十三条の学問の自由や十三条の幸福追求権で読み取れるとの主張があります。さらに、法律での規定でいいとの主張もありましょう。しかし、個人の尊重を超えた生命の尊厳という概念を憲法に明記することは、今日的な生命軽視の風潮の台頭の中で、重要に思われます。

 以上、概括的に、第三章の中で新たに書き加える必要ありとするところのみの検証を行いました。

大畠会長  次に、笠井亮君。

笠井委員  日本共産党の笠井亮です。

 日本国憲法第三章の中心的意義は、基本的人権の尊重を明記したことです。

 まず、第十一条で、基本的人権は侵すことのできない永久の権利と宣言し、十三条で、全て国民は個人として尊重され、生命、自由、幸福追求の権利は国政上最大の尊重を必要とするとの総則規定を設けた上で、精神的自由、経済的自由を定めています。そして、二十五条で、健康で文化的な生活を営む権利を定め、全ての生活部面でその向上、増進に努めることを国の責務として明確にしていることが極めて重要な点なのであります。

 憲法前文で、恐怖と欠乏から免れて、平和のうちに生存する権利をうたっていることも、基本的人権の重要な内容をなしています。

 日本国憲法の人権規定は、今も最先端を行くものだと国際的にも定評があります。最近、米国の法学者らが百八十八カ国の憲法を分析したところ、日本国憲法は、世界で主流となった人権の上位十九項目までを全て満たしています。六十五年も前に画期的な人権の先取りをした憲法と高く評価されており、その規定の全面実践こそ求められているのです。

 この画期的な内容を持つ憲法の原則に照らし、現実がどうなっているのか、その検証をめぐって、具体的な問題で幾つか述べたいと思います。

 まず、東日本大震災、東京電力福島原発事故にどう向き合うかです。

 震災、原発事故の復興に当たって求められているのは、憲法の視点で見れば、人間の尊厳と幸福追求権を定めた十三条、生存権を定めた二十五条に立脚した人間の復興であります。それは、道路や建物など、ハード面の復旧はあくまで手段であって、本来の目的は、人々の生活やなりわいの再建にあるということにほかなりません。

 この理念に照らして、被災者が最低限の生活を維持するために不可欠な住宅が確保されないのはなぜなのか、働く権利を保障するなりわいの再建が進まないのはなぜなのか、そうした現実をもたらしている原因の解明こそ真剣になされなければなりません。

 福島原発事故に対しても、事故がなければ生じることのなかった損害について、全て賠償することが大原則でなければなりません。ところが、現実には、賠償は遅々として進まず、いまだに不当な線引きが行われ、賠償の範囲を恣意的に限定するなどの事態が続いています。その原因はどこにあるのか、被災者の立場に立って、徹底的に解明されることこそ必要なのではないでしょうか。

 原発は、一たび重大事故が起これば被害は空間的にどこまでも広がり、時間的にいつまで続くか果てしなく、社会的にも、一つの地域社会を丸ごと存続の危機に追いやるほど猛威を振るう、このことが今回の事故を通じて明らかになりました。

 今こそ憲法がうたう基本的人権尊重の原則に立って、今回の事故原因を徹底究明し、再稼働の押しつけをやめるとともに、原発依存の政策を根本的に転換し、原発ゼロの政治決断を行うことこそ求められているのではないでしょうか。

 次に、憲法の視点から、労働者の雇用と権利をどう守るかです。

 憲法二十七条では勤労の権利、義務を、二十八条では労働基本権を定め、これらの規定に基づき、労働基準法など、労働者の雇用と権利を守る一連の法整備がなされてきたのであります。

 ところが、現実には、ワーキングプア、過労死、大量リストラ、不当な解雇など、憲法のもとであってはならない重大な事態が起こっています。大企業の利益を最優先にする方向で労働法制を次々と改悪してきたためです。特に、派遣労働の原則自由化、製造業への拡大など、労働者派遣法の改悪が重ねられ、大企業による非正規労働者の大量解雇や雇いどめなどという深刻な雇用破壊が進められてきました。

 憲法がうたう労働者の人権保障の観点に立って、労働実態を徹底的に検証し、雇用と権利を守るルールをつくることこそ求められています。

 最後に、生存権の観点から、社会保障の現実はどうかという問題です。

 憲法二十五条は、経済的、社会的弱者を保護し、福祉国家の理想を積極的に実現することを国家の責務としています。これに照らして、国民生活の現実がどうなっているか、あらゆる階層、あらゆる分野にわたって今こそ問い直されなければなりません。

 特に、生活保護制度とは、憲法二十五条に基づき、国が生活に困窮する全ての国民に対し必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障することを目的としたものであります。ところが、実際には、生活保護を必要とする人が受けられないというのが深刻な現実です。それは、財政難や自立自助、共助の名のもとに、生活保護費を大幅に削減し、制度を改悪する動きによって引き起こされた事態にほかなりません。

 生活保護をめぐる朝日訴訟において、憲法二十五条は、国民が単に辛うじて生物として生存を維持できるという程度のものであるはずはなく、必ずや国民に、人間に値する生存あるいは人間としての生活というものを可能ならしめる程度のものでなければならないとするとともに、そのための国の責務が明確にされました。

 この観点から、憲法二十五条の生存権を破壊する改悪は中止し、生活を保障する機能を強めること、生活保護基準より低い国民年金の平均受給額や最低賃金を引き上げることこそ急務です。低所得者ほど負担の重い消費税に頼らず、社会保障の充実と財政危機打開を図る道を探求することこそ憲法の要請であることを強調し、意見表明とします。

大畠会長  次に、渡辺浩一郎君。

渡辺(浩)委員  新党きづなの渡辺浩一郎です。

 きょうは、憲法三章の国民の権利及び義務のうち、主に公共の福祉の論点に関する第十二条、十三条、第二十二条及び第二十九条と、国民の義務の論点に関する第二十六条、二十七条及び三十条についてのみ意見を述べさせていただきます。

 戦後いち早く現憲法が施行されて、はや六十年以上たちました。この間、この憲法の基本的な考え方は、広く国民に定着したものが数多くあります。基本的人権の尊重、平和主義、国民主権などはそれに当たりましょう。

 こうした視点の中でこの三章の公共の福祉及び国民の義務の条文を見てみますと、多くはこの六十数年の中で広く国民に定着し、また、それぞれの憲法の条文に従って立法措置がとられ、それなりの法体系ができ、しかもそのほとんどは、この六十数年の中で国民が疑問視したり異論を挟むものはないような内容に感じ取れます。

 例えば、二十二条の居住、移転及び職業の選択の自由は今日では当たり前のこととなっておりますし、普通教育の義務もこれに当たりましょう。したがって、十二条、十三条、二十二条及び二十九条の公共の福祉の条文は、幅広く公共の福祉の視点に立った国民の自由及び権利がうたわれており、しかも国民に定着している現状の中で、これをさらに掘り下げて公共の福祉の具体的な内容を憲法にする必要性はないと考えております。

 一方、国民の義務に関しては、今ある教育の義務、勤労の義務及び納税の義務は、ほぼ国民の意識の中に定着しているかと思いますが、いまだに、憲法の中に何らかの形で明記しない限り国民がその意識を持たないものが幾つかあるような気がいたします。

 その例として、選挙のときの投票の意識、国民として当然のことですが国を守るという意識です。これを憲法の中で、投票の義務、国防の義務と明記するにはかなりの異論がありましょう。しかし、この大事な二つの意識は、やはり憲法の中で何らかの形で明記して、国民の意識を高めていく必要は十分にあると考えます。

 したがって、投票に当たっては、選挙権を与えられた者は投票に責務を負うという条文をこの第三章の中のどこかに明記する必要があると私は考えます。一方、国防に関してですが、これも義務ではなく、国民は国を守る責務を負うという条文を加える必要があるとも考えております。

 以上です。ありがとうございました。

大畠会長  次に、服部良一君。

服部委員  社民党の服部良一です。

 日本国憲法第三章につきまして意見を表明いたします。

 社民党としては、本章についても明文改憲の必要はないと考えております。

 日本国憲法の権利、自由に関する諸規定は先駆的なものであると評価できます。しかし、現実には、これらの憲法上の権利、自由が、法律やさまざまな場面において十分に保護、保障されておりません。むしろ侵害され、足元から切り崩されていることこそが問題です。格差、貧困、これはまさに幸福追求権、生存権が侵されている象徴です。

 第二十五条の生存権、すなわち健康で文化的な最低限度の生活とは何かということは、生活保護等との関係で常に問われてきました。生活保護が二百万人を超え、過去最高を更新する一方で、生保バッシングや、自助、自己責任を強調する風潮も見られます。これは余りに安易な、強者、持てる者の目線だと言わざるを得ません。

 貧困は人生におけるさまざまな機会を奪うものであり、子供の貧困が問題となっているように、世代間で再生産されています。

 同時に、問題を経済的な側面だけで捉えることもできません。幸福度が最近注目されています。また、その裏返しとして社会的排除ということがキーワードになっております。つまり、人としての尊厳、自尊心、あるいは人とのつながり、社会的な居場所、そういったものが得られているのかどうか、それが大事です。

 そういった観点から、ナショナルミニマムの再定義、それを踏まえた制度、政策の強化、再構築が喫緊の課題です。憲法第十三条や第二十五条を改めて見てみますと、まさにそういうものとして幸福追求権や生存権がある。これらの権利の実現、すなわち憲法理念の徹底、普遍化こそ政治の責任ではないでしょうか。

 先ほど申し上げたように、自己責任論が横行する一方、苦境から抜け出したくても抜け出せない、最初から機会が閉ざされているといった今日の社会の現実を直視することが求められます。構造的な差別やゆがみ、経済的、社会的な不平等、不公正をいかに正していくかが最も重要です。自由競争至上主義の弱肉強食でいいのか、スタート時点で有利不利が決まってしまう社会、足を滑らせたら真っ逆さまの滑り台社会でいいのか。日本国憲法の目指す社会はそうではありません。憲法第十四条に高らかにうたわれている平等が、形式としてだけでなく実質的に実現する差別のない社会を築く決意を新たにしたいと思います。

 また、国民の義務規定をふやしたり、家族、家庭の尊重といった徳目的な規定を設けたりすることには反対です。日本国憲法は、人々が、圧制、恐怖、欠乏からの自由を獲得してきた歴史を体現しています。時計の針を逆に戻してはなりません。国家優先、家社会優先がいかに抑圧的であったか、過ちを招いてきたか、その反省を真摯に受けとめる必要があります。

 同時に、憲法第二十条の政教分離原則については、戦争や国家神道によって国内外で人権と平和が侵害された歴史とその責任を真摯に受けとめ、厳格な政教分離を求めるものとして解釈適用されるべきです。過去の戦争を肯定、美化し、再び戦争への道を開くことも決して許してはなりません。

 一方で、環境権、知る権利、プライバシー権といった新しい権利が日本国憲法にないではないかという議論があります。果たしてそうでしょうか。

 これらの権利は、日本国憲法が包括的に保障している市民的、政治的自由、経済的、社会的、文化的権利の構成要素として、当然に日本国憲法の精神に内包されています。日本国憲法は先進的で深遠なものであると私は思います。新しい権利の確立を妨げているのは、憲法そのものではなく、憲法上の権利を限定的に解釈し、適用範囲を狭めた法律であり判例であり、政策や実践です。

 例えば、知る権利については、いわゆる外交密約問題のように、国民の権利、自由にかかわる重大な情報を秘密として為政者によって隠されてきた過去を厳しく糾弾し、真実を徹底的に明らかにすべきです。新しい権利を先駆的に根拠づけている憲法理念の可能性を十全に花開かせることこそ、大きな課題であると強調したいと思います。

 さらに、日本は国際人権条約の批准や留保撤回という面で多くの課題を抱えております。

 例えば、人権状況の改善に資するとして期待が高い個人通報制度を日本はまだ導入しておりません。死刑廃止が世界の潮流であるにもかかわらず、日本は死刑廃止条約を批准しておりません。

 国際人権分野において歩みが遅い背景には、憲法解釈の狭さや法律整備などの問題もありますが、何より、明確な政治的意思を持って進めていく姿勢が求められています。世界の範たる包括性を持った憲法を持つ日本こそ、国際人権法の普遍的適用の先頭に立つべきではないでしょうか。

 最後に、憲法上の権利、自由が危機にさらされていることこそ、今私たちが直面している大きな課題であると改めて警鐘を鳴らしたいと思います。

 思想、良心、言論、表現の自由は、特に九〇年代後半以降、盗聴法、国旗・国歌法などの立法措置を含むさまざまな動きによって脅かされています。直近では、秘密保全法案や暴力団対策法改正法案に対して懸念が高まっています。一方、大阪では、教育基本条例、職員基本条例、市職員アンケートなど、憲法違反と解釈される動きが強まっており、私は質問主意書で見解を問いましたが、内閣は違憲性の判断を示すことを避けました。

 また、今国会で成立した新型インフルエンザ対策法に盛り込まれた行動制限や、東日本大震災を受けて議論がされている災害時の私権制限の問題も、一見もっともらしい理由で個人の権利、自由を奪おうとするものです。

 沖縄では、差別的な日米地位協定や駐留軍用地特別措置法によって人権や財産権すらもじゅうりんされてきました。日本国憲法の理念、条文を再認識し、決して空洞化、空文化されてはならないということを強調して、私の意見表明といたします。

大畠会長  次に、柿澤未途君。

柿澤委員  みんなの党の柿澤未途でございます。

 きょうは、日本国憲法第三章国民の権利及び義務であります。

 まず、憲法というものの基本的性格についての認識をお話しいたしたいと思います。

 法治国家の成り立ち、憲法という最高法規の歴史的成り立ちからしても、憲法というものが国家権力のあり方について制限的に規定する規範であることは明らかです。つまりは、日本国憲法の場合、主権者たる国民から統治権力を付与された国家の統治機構のあり方を規定し、また、国家権力の及ぶ範囲、及ばない範囲を規定するものと解することができます。

 そして、日本国憲法第三章国民の権利及び義務は、国家権力が侵し得ない国民の基本的権利、逆に、国家権力が国民のために積極的に保障する権利、これについて定めたものと解することができます。逆に言えば、国家権力の側から国民に求める国民の義務とは、国家が国家として存立をし、全国民がひとしく幸福を追求する上で必要欠くべからざる場合にのみ限定的に定められるべきものであると解せられます。

 この点から申し上げれば、憲法改正の議論の中で、日本国憲法が国民の権利を強調し過ぎており、国家のために果たすべき義務の規定が十分でないという見方がありますが、このような国家権力が国民に課す義務の規定は必要最小限のものにとどめることが重要であると考えます。

 四月に発表したみんなの党の憲法改正の考え方では、第三章については特に改正すべき点を掲げてはおりません。環境権やプライバシー権といった種々の論点が提起されていることは承知いたしておりますが、主権者たる国民の享受する権利、逆に国民を拘束する義務について規定するものである以上、国民が何を求めているのかという民意の把握が大前提となると考えます。民意の把握と改正すべき論点整理のために予備的国民投票を行うのも一つの選択肢ではないかと考えます。

 ここでは、一点のみ、私見として、改正すべき論点を具体的に提起しておきたいと思います。それは情報公開についてです。

 主権者たる国民の意思に基づく国家権力の行使について、その正当性を担保するためには、主権者の意思表示と選択による国家権力の付与が十分な情報のもとに行われる必要があります。そうでなく、十分な情報を与えられないまま国民が国家権力の行使主体を選ぶのであれば、それは国民の意思表示と選択をゆがめることになってしまいます。国家権力の行使主体と国民との情報の非対称性が存在するがゆえに、国家権力の恣意に引っ張られた意思表示と選択を国民が行ってしまえば、これは主客転倒であり、厳に避けなければなりません。これは国家権力の行使の正当性を左右する根幹的な問題であります。

 このため、国民主権を保障する基盤として、国家権力の行使主体による、あたう限りの十分な国民に対する情報公開を、憲法上、国民の権利として規定しておくことは必要なのではないかと思います。

 いずれにしても、国民主権の原則に立脚をして、国家権力の国民に対する行使のあり方を制限的に規定したものとして憲法第三章を捉える基本的立場を表明いたしまして、私の意見表明といたします。

大畠会長  これにて各会派を代表する委員の発言は終了いたしました。

    ―――――――――――――

大畠会長  次に、委員各位による自由討議に入ります。

 この際、委員各位に申し上げます。

 本日の審査会におきましては、論点を、第一に、公共の福祉及び国民の義務に関する論点、第二に、いわゆる新しい人権に関する論点、第三に、生命倫理、政教分離原則、家族、家庭や共同体の尊重及び知的財産権に関する論点、第四に、第一から第三までで議論の対象としていない論点、以上四つに分類いたします。

 各委員におかれましては、おおむねこの四つの論点の分類ごとに意見表明をしていただきますよう、御協力をお願いいたします。

 なお、この四つの論点の分類はあくまで目安でございますので、各委員の発言がその他の論点等に及ぶことは結構でございます。

 発言を希望される委員は、お手元にあるネームプレートをお立ていただき、会長の指名を受けた後、発言をお願いいたします。発言が終わりましたら、ネームプレートは戻していただきますようにお願いいたします。

 発言は自席から着席のままで結構でございます。また、発言の際には、所属会派及び氏名をお述べいただきますようお願いいたします。

 なお、幹事会の協議によりまして、一回当たりの発言時間は五分以内といたしたく存じます。委員各位の御協力をお願い申し上げます。

 発言時間の経過につきましては、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせをいたしますので、どうぞ御協力をお願いいたします。

 それでは、まず、公共の福祉及び国民の義務に関する論点について発言を希望される委員は、ネームプレートをお立ていただきます。

鈴木委員  民主党の鈴木克昌でございます。

 私は、先ほど何人かの委員の方からも出たんですが、雇用の問題と憲法の問題について少し持論を述べさせていただきたいというふうに思います。特に、非正規雇用とそれから憲法のいわゆる平等原則とか勤労の権利というところでございます。

 言うまでもありませんけれども、現在の非正規労働者の数というのは千七百五十万人を超えておるということで、勤労者の三割を占めているということであります。その方々が幸せな生活を送っていただいておればいいんですけれども、現状では大変厳しい状況に置かれております。

 非正規労働者というのは、正規労働者と比較して、不況期においては解雇や雇いどめなどを受ける、賃金が低い、それから、いわゆる企業内での職業訓練を受ける機会も低い、こういうことが問題になっているわけであります。

 私は、この非正規労働者の問題というのは憲法にかかわる問題だ、このように思っておりまして、いわゆる憲法二十七条でありますけれども、国民は勤労の権利を有するというふうに規定をされております。しかし、非正規労働者がここまで増加をしている状況の中で、勤労の権利が十分保障されているというふうに言えるかどうか、これについて私は、やはり検証をする必要があるというふうに思っております。

 また、憲法十四条の一項で、いわゆる平等原則ということでもありますが、これもやはり検証が必要ではないかな、このように思っております。

 何が言いたいかということでありますけれども、やはり同一労働、同一形態といいますか、同一価値の労働に対してはやはり同一の賃金が払われるべきであるというふうに私は考えておりまして、非正規労働者の労働条件の確保等についても検討が必要であるというふうに思います。

 改めて、憲法の保障する勤労や、そして平等の原則といいますか理念等々に立ち返って、国民の勤労の権利を確保するような、とりわけ非正規労働者の労働条件の確保等の問題について、憲法問題として検討していく必要があるのではないかな、私はこのように思っております。

 以上です。

柴山委員  権利保障は、非常に現代社会において重要性が高い分野だと思っております。なかんずく、新しい人権の問題について、かつて想定されていた明文上の権利ではなかなか解釈が難しいものがあり、そういった分野の権利については、やはり私は明文を書き加えていくことが必要であるというように思っております。

 しかし、過度に人権を尊重し過ぎるが余り、国民が義務あるいは責務について軽視をする風潮が近時見られることについては、やはり警鐘を鳴らさなくてはいけないというように感じております。

 そこで、公共の福祉について取り上げなければいけません。

 この公共の福祉は、人権を制約する原理として憲法十三条などに書かれておりますけれども、私は、この福祉という言葉の使い方が、権利を制限するのに本当に適切な用語であるかどうかということについては疑問に感じるところであります。

 また、この公共の福祉の解釈についても問題が大きいと思います。先ほど橘部長よりお話があったとおり、通説では、公共の福祉とは人権相互の矛盾、衝突を調整するための実質的公平の原理ということでありまして、平たく言えば、人に迷惑さえかけなければ権利は最大限に尊重されなければいけないという理念でございます。

 しかしながら、私たちの経験上も明らかなとおり、人に迷惑さえかけなければいいという方々が実は結構他人に迷惑をかけていたりすることもございます。これについてはまた、先ほどお話があったように、美観あるいは性道徳、国家的な秩序の利益ということについては、人に迷惑さえかけなければこれらを脅かしてよいのかということについて、なかなか説明がつきづらいという側面があります。

 青少年の健全育成に係る規制、あるいは薬物を使用しても、例えば暴れ出してほかに迷惑をかけなければ、自分自身が健康を害してもいい、そういうようなことにもつながっていきかねません。このような解釈をもたらす公共の福祉というものは、やはり私はしっかりとした文言に改めなければいけないというように思っております。

 解釈上、先ほど来お話が出ているように、社会的な弱者をしっかりと保護するために、社会国家的な側面を公共の福祉に読み込むということは既に行われておりますけれども、例えば、健全育成のためにその者の自立、自己決定に干渉していくパターナリスティックな、先ほど申し上げたような麻薬ですとか健全育成、こういう事柄についてはなかなか、解釈上まだ制約原理として成熟はしておりません。

 こういったことも含めて、公共の福祉という言葉を改め、公益または公の秩序というような文言改正をしていくことが必要なのではないかというように私は考えております。

 違憲立法審査で、裁判上、判断基準さえ明確にすればよいではないかという意見もありますけれども、まずは、やはり実定憲法の上でこの公共の福祉という言葉を改めることが私は必要であるというように思っております。私益よりも公益が無秩序に優先するということに解釈がなっては当然いけないわけですけれども、そこは精緻に解釈をしていくということができるかと思います。

 また、国民の義務について、これを憲法上書く必要はない、法律上定めればよいではないかというお話もありますけれども、それは今申し上げたことと裏腹の関係にありまして、憲法上、権利の制約ということで必ずしも説明はできないけれども、やはりさまざまな形で責務として明文上しておいた方が誤解が生じないもの、これについては最低限の明文化ということが必要になってくるということを私は申し上げたいと思います。例えば、後日話題になるであろう緊急事態における国民の責務等がこれに当たるかと思います。

 以上申し上げて、私の発言を終わらせていただきます。ありがとうございました。

緒方委員  民主党、緒方林太郎でございます。

 国民の義務、国民の権利ということが語られていますが、それと同時に、人権ということが出てきます。そもそも、憲法の幾つかの規定の中で、これは国民が対象なんじゃなくて、人間そのものが権利の主体なんじゃないかと思えるものがございます。

 例えば基本的人権のところですけれども、これは別に国民でなくても、外国人でも保障されるものというのはたくさんあるわけでありまして、逆に納税の義務とかも、国民は納税の義務を負うと書いてありますが、外国人でも義務を負っているわけであります。

 そういった意味で、義務にせよ権利にせよ、いずれもそうですけれども、憲法の中で若干、無意識なんだろうと思いますけれども、そこら辺の区分が曖昧というか、よく整理をされていないと思うところがあります。今後、仮に憲法の中身を改正するなりなんなりというときには、そういった意味で、誰が権利義務の主体であるのかということについては、もう一度よく考え直して整理をする必要があるだろうと思います。

 それとの関係でもう一つ。

 人権といいますが、法人は人に含まれるかどうかということについて問題を提起したいというふうに思います。

 法人は権利の主体となるか。もちろんなるわけでありますけれども、これが余り強く主張され、例えば法人として参政権を持つとかいうことになってくると、それが今度は、司法判断の中でよく出てくる言葉でありますけれども、部分社会論と一緒になるときに、非常に、法人の自由、法人の権利、法人の義務ということが強調されるが余り、個人の権利、個人の自由というのが害されることがある。

 結社の自由というのは、ともすれば、その結社の一部を構成する人間の自由を抑制する効果を持ちかねないということについては、私はちょっと慎重になるべきではないかなというふうに思います。

 そして、義務の中でもう一つ、投票の義務ということについての御提起がございますが、これは裏を返せば、棄権する権利をどう考えるかということにつながると思います。国民は棄権する権利を持つことを許されるか許されないか。

 私は、もちろん投票所まで行って棄権するということはできるわけでありますけれども、そもそも棄権する権利との見合いで考える必要があると思っておりまして、投票の義務ということについては、私は、諸外国にあることは承知をいたしておりますけれども、義務とまで言うことについては若干慎重であるということであります。

 そして、公共の福祉。

 公共の福祉という言葉については、これがマジックワードになってはいけないと思うんですね。何でも、公共の福祉を言えばいろいろな制限ができるということであってはならないというふうに思います。基本的に、公共の福祉という考え方というのは抑制的に使われるべきものであろうと私は思います。

 そして、最後に一つ。

 ただし、日本のこれまでの憲法解釈、違憲立法審査の中でよく出てくるやり方の中に二重の基準というのがございます。精神的自由については非常に厳しく、そして経済的な自由権については、規制を課すことについて寛容である、そういうことだと思いますけれども、私、若干、この二重の基準の、精神的自由について厳しく判断するというのは、それは原則としてそうなんだと思いますけれども、表現の自由の敵に対してまで表現の自由を認める必要は全くないわけでありまして、自由の敵に対してまで自由を認める必要は全くないというふうに思います。

 反社会勢力に対する表現の自由をどれだけ認めるか、もっと言うと、児童ポルノとかああいったものについてどれだけ自由を認めるのかというと、これは精神的自由であるからできるだけ自由に認められるべきであるという考え方については、これは私は間違っているというふうに思います。

 以上であります。

山崎(摩)委員  民主党の山崎摩耶でございます。

 私は、国民の義務の中で、第二十六条教育を受ける権利について、一言ディスカッションをさせていただきたいと思います。

 第二十六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」となっております。私がちょっとひっかかりますのは「その能力に応じて、」という一言でございます。素直に読みますと、障害があってもなくても、教育の機会均等ですとか、または公平性ですとかあるいは平等に、そういう意味合いが込められて、「その能力に応じて、」という一文がここにあるのかというふうに解釈もするわけです。

 しかし、昨今のインクルーシブ教育を私などは推進する立場でございますが、時代背景が、戦後間もなくのこの憲法条文が定められたときと、現在、国連が定めました障害者権利条約等々に言いますインクルーシブ教育を推進していきますときに、逆に、この「その能力に応じて、」という一文が、一般教育制度から、ちょっと言葉がきついわけですが、排除する理由づけにもなってはいないかという疑問でございます。

 国内におきましては、二〇一一年、昨年の夏に障害者基本法も改正をいたしました。その障害者基本法第十六条、教育の条文でございますが、「可能な限り障害者である児童及び生徒が障害者でない児童及び生徒と共に教育を受けられるよう配慮しつつ、教育の内容及び方法の改善及び充実を図る等必要な施策を講じなければならない。」また、国、地方公共団体は、この目的を達するために、障害者である児童及び生徒並びにその保護者に対して十分な情報の提供を行うとともに、可能な限りその意向を尊重しなければならない、こんなふうになっております。

 しかし、方向性としては示されたわけですけれども、これを今後具現化していくときに、まだまだ我が国の中には多くの課題が残っております。とりわけ、全ての子供が自分の住む地域の学校に籍を置く、学籍簿というのがございますが、この学籍一元化を原則とした就学手続に改めるためには、原則分離を規定している学校教育法の改正も必要になってくるわけでございます。

 そういうことを考えますと、やはり、この「能力に応じて、」という一文が、制定当時は大変積極的な意味を持っていたのかもしれませんが、そのあたりが昨今ではどうなんだろうか。その辺にちょっと疑問を私自身は感じているところでございます。

 そこで、橘部長には、この一文につきましての意味合い、またはディスカッションがあったのかなかったのか、そのあたりについてもちょっとコメントいただければ幸いでございます。

 以上でございます。

橘法制局参事  山崎先生、御質問ありがとうございます。手持ち資料の範囲内で御答弁申し上げさせていただきたいと存じます。

 先生御指摘のように、憲法には「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、かつ、教育基本法、現行ですと第四条第一項でございますが、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、」と。つまり、「ひとしく、」と「その能力に応じて、」という言葉の位置がかわっていますけれども、基本的には、これは同じ意味だというふうに解されているようでございます。

 その上で、一般的な憲法のコンメンタールなどによりますと、この「能力に応じて、ひとしく」とは、教育を受ける権利における平等、すなわち憲法十四条の定める平等原則の教育における適用を意味するとされ、すなわち、人種、信条、性別、社会的身分、門地などによって教育を受ける権利が差別されてはならず、専らその能力に応じて、教育を受ける機会を与えられるべきという、教育の機会均等を意味するものというふうにされているようでございます。

 さて、その上で、先生御指摘の「その能力に応じて、」とはどういうことかということでございますが、教育を受けることによってその人としての能力を向上せしめ得る資質を持ちながら、その資質とは関係のない他の事情によりそれが妨げられることがあってはならないことを意味する、「能力に応じて、」とは各人の知能の相違に応じての意味ではない、このように述べられています。

 別の代表的なコンメンタールですと、「能力に応じて、」とは、それぞれの適性と教育を受ける必要な能力に応じてという意味で、各学校でその性質に応じて入学試験を行い、合格者だけを入学させるのは差し支えない、能力と無関係な事情、財産や家庭などを理由として入学を拒否することは許されないというようなことが述べられているようです。

山崎(摩)委員  ありがとうございました。

 しかし、学校教育法の施行令等を見ますと、自分の生まれた地域にまずは学齢簿があり、それで健康診断をしてという流れになっているわけですが、その学齢簿に登録された段階で既に振り分けがされているやに聞いております。そういったところも少し、文科省では今後施策を推進していっていただければなというふうに思っているところでございます。

 ありがとうございました。

小沢(鋭)委員  民主党の小沢鋭仁でございます。

 二点申し上げたいと思います。

 第一点目は、環境権に関してであります。

 これは、我が党の大谷委員の方から既に民主党の考え方は申し上げましたし、各党からも押しなべて、環境権を新しい権利として入れるべきだという意見が多かった、こういうふうに承知をしているところでございます。

 その中身を私としては提案しておきたいわけでございまして、三点ございます。

 民主党の憲法調査会での提言があるわけでありますけれども、まず第一点は、環境優先の思想、それを高らかに宣言すべきである。今日の地球環境の状況は各委員の皆さん方も御承知のとおりでございまして、人類のまさに存亡の危機、未来への責任、こういうことに鑑みて、まさに環境優先の思想として、それを我が国がしっかりと持つべきだということを申し上げたいと思います。

 そうなれば当然、共同の責務、我々としてはそれをしっかりと行っていく責務があるんだということを明記しなければなりません。これは、いわゆる逆に言う義務でございまして、このこともしっかりと明記をしなければいけない。

 さらに、三点目は、先ほども申し上げましたが、いわゆる環境優先の思想、こういう話は今日を生きる我々だけの問題ではなくて、未来への責任だという三点を明記すべきであるという点を申し上げたいと思います。

 それから、二つ目の論点でございますが、十四条でしょうか、法のもとの平等に関して意見を申し上げたいと思います。

 法のもとの平等、これは大変大事な考え方だとは思っております。問題はその中身でございまして、昨今、いわゆる一票の格差の問題、選挙権の問題で、憲法上の法のもとの平等がその根本原理である、こういう話で議論がなされているわけであります。

 私の提案は、この法のもとの平等という話の中で、いわゆる人口、もっとざっくばらんに言うと、頭数だけで法のもとの平等という話が捉えられていいのかという考えでございます。一言で言えば、地域間の格差、この話も法のもとの平等に含まれるべきと私は考えておりまして、そういった意味においては、法のもとの平等と選挙権ということに関して議論を深めるべきだ、こういうふうに思っております。

 さらに具体的に申し上げると、今日の一票の格差の問題は、いわゆる各都道府県、自治体に対する基礎的配分が違憲である、こういう判決が出たことに基づいておりますけれども、今申し上げたような地域間格差という話も法のもとの平等において含まれるということになれば、基礎的配分というのは、ある意味では極めて政治的な意思として行われるものであって、これは、例えばいろいろな予算の配分などというときも、まずそれぞれの自治体に基礎的配分を行って、加えてそれに人口比を上乗せしていくというような手法は常に行われるわけでありまして、そういった意味では、私は、この選挙制度に関しても、基礎的配分制度というのがおかしいという話には決してならないと思っています。

 現に、最高裁の判決でも、そういった意見をおっしゃっている判事の人たちが、少数意見ではありますけれども、明記をされているわけでありまして、政治の意思として、私としては、法のもとの平等という話において地域間格差を考えれば、そういった判断はまさにおかしいというのが私の思いでありまして、そのことを申し上げ、法のもとの平等という話を深掘りすべきである、こう提案を申し上げておきたいと思います。

笠井委員  この審査会、幹事会でも確認されてやってきましたけれども、その確認に基づいて、つまり、改憲の論点あるいは改憲の是非ということよりもまずやるべきはということで、憲法の検証をやろうということであったので、私は、論点の整理あるいは議論もそういう形に沿ってやるべきだろうというふうに、この間も言ってまいりました。

 第三章に当たっても、この章でうたわれている基本的人権の尊重という原則に照らして、日本の政治、社会の現実はどうかという立場で検証が大事だというふうに思っておりまして、私は、その点では、先ほど鈴木幹事が指摘された点は非常に大事な点だというふうに受けとめて、共感したところであります。

 その上で、ちょっとまた議論の進め方で、今、小沢筆頭幹事が第二区分と第四区分のお話をされたので、一応、第一区分から順番にやる、私も、こういう区分がいいのかどうかとそもそも言ったんです。だけれども、それでやろうとおっしゃったので、それに基づいてやっているので、ちょっとその辺の整理はやっていただかないと。今の議論を聞いていてまた言いたいことはあるんですが、それはまた改めて言いたいと思います。会長が仕切っていらっしゃる第一区分にかかわって二点だけ述べたいと思います。そこはちょっと進め方をよく整理してもらいながらやってもらわないといけないかなと思うんですが。もちろん、わたってもいいんですがね。

 一つは、この第一区分と言われているところにかかわってですが、憲法というのは、国民の自由と権利を保障するために公権力を制限するということであって、国民に責務を課すものではないと思うんです。

 ところが、現実にはどうかという点でいうと、現行の十二条を国民の責務ということとして、国民は、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚して、常に公益及び公の秩序に反してはならない、そういう内容に変えるべきだという動きがあります。

 憲法調査会の当時から繰り返し指摘されてきたことですが、やはり今必要なのは、立憲主義の立場から国民の自由と権利を最大限に保障することだというふうに思います。

 もう一点、このところで申し上げたいのは、公共の福祉についてであります。

 先ほどからも御意見がありますが、そもそも、憲法に明記された公共の福祉というのは、人権と人権がぶつかり合った場合の調整原理であって、国家が国民の人権を制限するためのものではないということだと思うんです。

 ところが、現実はどうか。この点でも、現実を見てみると、公共の福祉の名のもとに何が行われてきたか。乱開発の問題、あるいは今問題になっている原発の建設、あるいは基地建設など、国民の人権をさまざまに侵害する政策が実行されてきて、その結果、深刻な環境破壊をもたらし、国民の生命と安全が危機にさらされることになったという現実があると思うんです。

 ですから、やはり今求められているのは、公共の福祉の具体化と称して、公益及び公の秩序というものに置きかえて、人権よりも上位にあるものを国家が勝手に設定して人権を不当に制限することではなくて、むしろ、憲法の立場で公共の福祉を厳格に運用して、基本的人権の尊重を最優先にすることだというふうに現実との関係では考えております。

 以上です。

柿澤委員  今、笠井委員からお話がありましたが、小沢幹事の御提起をされた、法のもとの平等に関する一票の格差の問題についてのコメントに対して、私も一言申し上げておきたいと思ってこの札を立てさせていただきました。若干、項目立てに合致しない進行になってしまうことをお許しいただきたいと思いますが、時間の関係から一言だけ申し上げさせていただきたいと思います。

 憲法に定められる法のもとの平等、まさに、一票の平等というのはこの核心ではないかというふうに思います。その点、二倍、あるいは参議院でいえば四倍、五倍、こうした一票の不平等が放置をされてきたというのは、明らかに憲法が定める法のもとの平等に反する状況である。私たちは、可能な限り一人一票に近づけるということが何よりも必要なことだというふうに思ってまいりました。

 その点、先ほどのお話では、地域間格差を考慮して、厳密な一票の平等を保障する、こうしたことは必ずしも求められない、こういうお話でありましたけれども、私たちは、一票の平等こそが、ひとしく国民として政治に参画をし参政権を行使する基本的な大前提だ、こういう立場に立っているところでございますので、この点、議論を深めたいということでありますから、今後、こうしたことが果たして憲法上どう考えられるのかということについて、御議論の場を与えていただきたいというふうに思っております。

 ちなみに申し上げておきますと、アメリカでは、一票対〇・九九三票でも平等ではないと違憲の判決が出ている、こうした判例もあるところであります。

 そのような世界的な事例に照らして日本の現状がいかなものであるか、そして今後、法のもとの平等を担保していく上で、参政権の平等、一票の平等がどれほど担保されなければならないのか、この点については極めて重要な論点であるということは、小沢幹事とも共有をさせていただきたいと思います。

 今後、そうした点についてぜひ御議論の場を与えていただきたい、このことを申し上げまして発言とさせていただきます。

磯谷委員  民主党の磯谷香代子です。

 本日は、具体的な条項についてというよりも、私は、権利という用語について私見を述べさせていただきたいと思っております。主に、利の方の漢字でございます。

 まず、権利の権の文字を辞典で調べますと、これは、他を支配する力、権力、または、物事を行う資格、また、他に対して物事を主張、要求する資格となっております。

 では次に、利に関してでございます。

 まず、権利及び義務という用語の英訳を見ますと、ライツ アンド デューティーズ オブ ザ ピープルになっております。このライツに関してですが、英和辞典ですと、もちろん、権利という今の漢字が使われておりますが、英英辞典で調べますと、このライツに関しては、サムシング ザット ユー アー モラリー リーガリー オア オフィシャリー アロード ツー ドゥー オア ハブとなっております。つまり、モラルにのっとり、リーガル、遵法であり、オフィシャル、公共を満たした場合にという英英辞典の解釈になっております。

 そうなりますと、今の権利のリに使われている利は、利益ですとか利潤ですとか、そういった言葉になるわけですが、これは本来のライトの訳にふさわしいかどうかということを考えております。

 それよりも、理念、権利のリという読み仮名にこだわるのであれば、理念であるという、ことわりの字の理の方がふさわしいのではないかと考えます。これは、筋道ですとか道理ですとか。

 この権利というものが、権という字が他を支配する力、行う資格ということであれば、利益を行う資格であったり支配するというよりも、ことわり、道理を行う、もしくは支配するといった方が国民の権利にかなうのではないかと思っております。

 これは全くの私見でございますが、私の知人にもそのようなことを主張する人もいますので、あわせて、私の意見として述べさせていただきました。

 以上です。

中谷委員  日本の民主化政策というのは、戦後政策の柱でありまして、憲法の制定の中に基本的人権、国民の権利、法のもとの平等などがうたわれたわけでありますが、それでは、六十五年たってどうなったかといいますと、やはり人権とか権利の色合いが余りにも強く、国家としての日本のまとまりというものが薄くなっているのではないか。

 例えば、家族のきずなとか社会とか会社の集合体、これの果たすべき役割が薄れてしまって、個人個人がばらばらの考えのもとにばらばらの主張、また生活をするようになっておりますし、また、本当に努力をしている人が報われるような社会であるのか、ある意味、社会主義的な政策によって、例えば生活保護、また年金、税制においても、本当に努力をしている人が報われるような、自由そして自主自律、自由と規律といった精神が欠けているのではないかなという気がいたします。

 そこで、先ほど磯谷委員からもお話がありましたが、個人の権利のリというのは、私も、理として考えるべきで、筋道とか道理とか、やはり全体のことを考えたものでなければなりませんので、こういった言葉に対しての解説やら真の意味などをもう一度うたう必要が、ある意味では、憲法を検証して書きかえていく必要があるのではないかなというふうに思います。

 以上です。

岡本(充)委員  民主党の岡本でございます。

 まず最初に、先ほど山崎委員から、憲法二十六条の国民の教育を受ける権利について議論がありましたので、私も法制局に一点確認をしたいと思います。

 昨今、能力以外のもので、受けられる教育に差ができている状況があります。もう一度確認をしておきたいわけでありますけれども、現行憲法において、その能力に応じてということであれば、必然的に、先ほど、門地等で差別をしてはならないということであるという解釈でありましたが、例えば、住んでいるところによって学習塾があったりなかったり、また場合によっては、学習塾に行くお金があったりなかったりした結果、行ける中学校、高等学校がかわってくる、学習塾に行くかどうかは公的な教育とはちょっと違うとは思いますけれども、結果として、高等学校、中等学校といった、学校教育法で当然のことながらそれぞれが受ける権利を有している可能性のある、こういった教育が受けられなくなるということについてどのような解釈、議論がなされてきたのか。

 またあわせて、昨今、大変高額な授業料を要求する大学等がありまして、結果として、その大学に通うためには、まずその学費を支弁できるかどうかが選考の一過程になり得る。言わずもがな、受験生の家族がそこを思料しなければ受験できない、こういうような状況についてどのような議論がなされてきたか、わかる範囲でお答えをいただければと思います。

大畠会長  法制局としては難しい内容かもしれませんが、これまでの調査会等の経過を踏まえて発言をお願いします。

橘法制局参事  岡本先生、御質問ありがとうございます。

 大変難しい問題でございまして、会長御指摘のとおり、憲法の講学上の御議論としては、その能力に応じてというのは、その者の教育を受ける資質以外の他の事項によって差別してはならないという以上でも以下でもないということであるとしか申し上げることはできません。

 ただ、実質的な平等を図るものだ、憲法十四条と相まって、教育を受けようとする意欲と能力のある者に対しては、国家は実質的な平等を図るために教育の機会均等を与えなければならない、そういう理念的な規定であることは確かでございます。それをどのように解釈し、具体的な法律ベースに制度設計するかは、まさしく先生方の立法権の行使になられるかと存じます。

 後者の、大学におきます高額な授業料につきましては、今度は二十六条の二項後段のいわゆる無償の範囲という形で、こちらの方は、衆議院の憲法調査会におきましても国会論議におきましてもさまざまな御議論があるところは先生御承知のとおりであります。

 義務教育、いわゆる小学校、中学校教育の無償とされる範囲、これは授業料である、法律ベースで教科書まで無償とされているけれども、憲法上要求されているのは授業料の無償であるというところは、たびたび御議論になられている点かと存じます。

 以上です。

岡本(充)委員  現在交わされている議論の中でも、私は、こういったその能力に応じてひとしく教育を受ける権利というものについて、やはりしっかり議論をする必要があると思っています。

 最後にもう一つ。

 先ほど柴山委員から、公共の福祉というワーディングについてどうかという議論がありましたが、どのような言葉を使うにせよ、公共の福祉というのは一体何なのか、そして、憲法十二条で書いているところの、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うわけでありまして、国民はこれを濫用してはならないという中でも我々は立法をしてまいったところでありますが、こういった条文と相まって、やはり昨今、個人の利己的な人権行使を限定すると解されている公共の福祉のあり方、そしてその解釈について、明文化するまでもなく、きちっとそこについて議論をしていく、その必要性があると私は考えています。

 以上です。

大口委員  発言の機会をありがとうございます。

 私は、公共の福祉についてお話をさせていただきたいと思います。

 日本国憲法の三原則、これは基本的人権の尊重、恒久平和主義、そして国民主権主義。この三原則の中で非常に大きな柱は、基本的人権の尊重である。ですから、基本的人権の尊重に対する制約は非常に慎重に考えなきゃならない、こう思っております。

 そして、第十一条に、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」こういうことで、特に自由権的権利につきましては天賦の人権、こういうふうに言われているわけでございます。

 ですから、人権は、こういう自由権的な権利と社会権的な権利、それから国家を前提とする権利とあるわけでありますので、その権利によってやはり厳格に解さなければならない、こう思うわけでございます。

 特に自由権的権利につきましては、憲法十二条で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」権利といえども濫用してはいけないということで、権利に内在的な制約があるという中で、厳格に、この権利の制約については、そういう内在的制約という形で積み上げられてきた理論ということを尊重すべきであるということで、公共の福祉も、自然権的権利についての制約というのは、内在的制約という形で対応した解釈であるべきだと思います。

 一方、二十九条は財産権について規定されているわけでありますが、財産権の場合は、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」ということでありまして、こちらの公共の福祉においては、かなり財産権を公共の福祉で制限できる内容になっているわけであります。

 そういうことで、公共の福祉自体の働き、機能は、権利の性格によって異なる。同じ概念を使うのがいいのかどうかという問題はあるわけでありますが、要は、どういう形で制約するのかということが明確になることが大事でございまして、その議論をしっかりしていくということが必要だと思います。

 あと、国民の義務についてでございますけれども、今、三つの義務、要するに勤労、教育を受けさせる義務、そして納税の義務は規定されているわけでありますが、さらに国民の義務を規定する必要があるのかどうか。

 確かに、国と個人の対立ということでなく、国も、また国民も、あるいはコミュニティーが共同してよき社会をつくっていくという点は非常に大事なことでありますけれども、そのことからさらに、それを憲法の国民の義務というところまで規定する必要性については慎重に議論しなきゃならない、こう思います。

 以上です。

大畠会長  いろいろと御意見等あると思いますが、この項については、現在札が立っている方に限っていただいて、次の項目に移りたいと思います。よろしくお願いいたします。

川村委員  民主党の川村秀三郎です。

 私も、公共の福祉について発言をしたいと思います。

 公共の福祉が、憲法上、基本的人権を制限する用語として用いてあるわけでございますけれども、これが同じ公共の福祉で統一されているということにちょっと私は違和感を感じております。

 先ほど大口委員の方も申されましたけれども、基本的人権にはいろいろありまして、まさに自然権として、人間である以上当然持つべき権利、それから、財産権のような、国家があって初めて成り立つような権利があるわけであります。ここに全く同じ用語が使われるということで、ちょっと私はよくないんじゃないかという意見でありまして、特に、日本の場合、所有権というものが非常に強調されておりまして、余りにも保護され過ぎているのではないかというふうに思います。

 やはり、社会的に認められるような権利については、他の基本的人権とは違って、ある程度、制限がより広範囲に認められるべきもので、その基準も、この公共の福祉一言で片づけられるようなものではないと思います。

 私どもの民主党の憲法提言の中でも、この財産権に関しては、その性質によって、制約原理あるいは基準を憲法上明確にすべきだという取りまとめになっておりますけれども、私も全くここは同意見でありまして、民主党ですからあれですけれども、この点は十分配慮されるべきだというふうに思っております。

中谷委員  第十一条の基本的人権の条文の記述の仕方なんですが、おおむね日本国憲法はGHQの英語を訳したところからきていまして、非常に、日本語としてなじみがあるものであるのかどうかということで、例えば十一条には「基本的人権の享有を妨げられない。」と書いてありますが、これはやはり基本的人権を享有するというふうに書くべきでもあります。

 また、後段の方は、現在、将来の国民に与えられるとなっておりますけれども、これは一体誰から与えられるものであるのか。人間である以上、人間以上の存在があって、誰か、第三者か神様から与えられるというものではなくて、やはりみずからがこれは制定するものでありますので、与えられるのではなくて、基本的人権は侵すことのできない永久の権利であると、はっきり、みずからが考えて書くように改めた方がいいのではないかなというふうに思います。

服部委員  先ほど、法のもとの平等の議論の中で選挙制度のお話がちょっと出ましたので、一言だけ、意見、感想を申し上げたいと思います。

 小沢委員あるいは柿澤委員との間で、選挙制度、法のもとの平等は一体何かという議論だったと思います。私も、限りなく格差はなくすべしということなんですけれども、そこまで言うのであれば、小選挙区制が極めて多くの死に票を生み出している、その問題も含めて、本当にそれが平等と言えるのかということも一つの視点として考えるべきじゃないかということが一点。

 それから、小沢議員の方から地域間格差という話が出ました。ある意味では、国政に、例えば沖縄であるとかあるいはアイヌ民族とか、そういうマイノリティーの声をどう反映させるのかという観点は、これはこれとして非常に重要な観点だというふうに思います。

 そういう意味では、地域間格差というものが、いわば農業であるとか林業であるとか過疎地の声であるとか、そういったものをどう国政に反映させるかという観点からすれば、やはりそこは一つの工夫があってもいいのかなと。

 いずれにしても、そういうマイノリティーの声をいかに反映させるかという観点から若干検討の余地はあるのかな、そういう思いをちょっと表明させていただきたいと思います。

 ありがとうございます。

大畠会長  それでは、この論点については以上とさせていただきまして、次に、いわゆる新しい人権に関する論点について発言を希望される委員は、ネームプレートをお立ていただきたいと存じます。

山尾委員  発言の機会をありがとうございます。

 私、十二月一日の審査会で、新しい人権について少し述べさせていただきましたので、それを少し具体化させて意見を述べたいと思います。

 十二月一日のときに、私はこのように申し上げました。時の経過に応じて醸成された新しい人権について議論すべきではある、とはいえ、それほどつけ加えるべきものの数は多くないのではないか、なぜなら、新たなものを書き込むということは、書き込まれなかったものの価値を相対的に下げることもあるし、あるいは、書き込む際にも、あえて簡潔な言及にとどめた方が、予測困難な将来に柔軟な対応ができることもある、憲法は、変化に応じて拡散するものではなく、変化にたえる、普遍の価値を抽出する努力をして、必要な限りで抑制的に補充されていくべきものだ、こういう趣旨のことを申し上げました。

 この観点から、新しい人権の議論でありますので、つけ加えるべき人権として環境権を指摘したいと思います。そして翻せば、それ以外の人権を否定するものではないですけれども、それ以外に明記すべきものはそう考えにくいのではないかなという私自身の感覚も先に申し上げます。

 最初に、憲法に明記するか否かということを判断する際に、重要性というものを超える観点が必要だということを申し上げたいと思います。

 数ある人権の中から、とかく重要だからという理由づけで憲法に入れようという方向性の議論も中にはあるかもしれませんが、今、権利侵害で苦しんでいる人の立場からすれば、重要でない権利というのはない。重要性が低いという権利ということも言いにくいと思いますし、一方で、では、重要な人権を全て憲法に明記していくことが可能なのか、適切なのかということを考えると、変化のスピードが速い現代においてとても不可能だと思うし、最高法規としての憲法を考える上でも適切でないというふうに思います。

 私としては、では、どんな観点でということを考えるときに、必ずしも全てではないですけれども、一つの切り口として、一点目に普遍性、二点目にやはり憲法に明記すべき特別の性質を持つ権利なんだということ、この二点からちょっとお示しをしたいと思います。

 普遍性ということは、多分、多くの方がそれは必要だよねと言っていただけるのかもしれません。時間軸を超えて普遍的な価値を有していることが憲法に明記する上には必要であるということ。

 そしてもう一つ、明記すべき特別の性質という点は、これは少し実務的な実質的な観点なんですけれども、人権侵害が裁判に持ち込まれる際に、多くの場合は対立利害があって、人権と人権の衝突ということになるんですが、では、その人権、権利が憲法上明記されているかどうか、憲法上明記されている権利であるということは、そのことそのものが調整場面では重要な一要素となります。だとすると、こういった扱いをするにふさわしい特別の性質を持っているのかということを考えるべきだと思います。

 そして、環境権について言えば、普遍性ということについて異論のある方は少ないと思います。むしろ、時を超えてますますその価値がかけがえのないものになっているということ。

 そしてもう一つ、実務的な観点からいうと、環境権というのは、裁判にかかったときに、今目に見えるその人に対する侵害ということが非常に評価されにくい。でも一方で、時が経過して、目に見えない侵害が積み重なることによって、その人のみならず多くの広い範囲の人々に取り返しのつかない侵害が明らかになってくる、こういう性質を持っていますので、裁判の時点でこの環境権に、憲法上明記されている権利であるという一つの強みを持たせることが必要だし、ふさわしい特別の性質を有しているのではないかというふうに考えております。

 最後に、では、権利という側面と責務あるいは義務という観点をどう考えるか。

 私自身は、権利と義務は一体だということを強く信じておりますし、少年法の議論でも選挙権の引き下げとの関係で申し述べさせていただきました。

 ただ、憲法論でいえば、憲法上明記するか否かという観点でいえば、私は、憲法は、国家からの自由というこの規範性にやはり最高法規性が見出せるのであって、憲法上国民の国に対する義務を明記することをふやしていくということには非常に慎重な立場をとっております。

 以上です。

笠井委員  環境権やプライバシー権などについてですけれども、これは憲法の第十三条あるいは二十五条などに照らして現実を検証する必要のある問題だというふうに考えています。

 例えば環境権の問題ですが、一九六〇年代から七〇年代初頭に深刻になった大気汚染などの公害問題に対して、当時の当事者や運動にかかわった方々あるいは弁護士の方々が、憲法十三条の幸福追求権、二十五条の生存権に依拠して、良好な環境のもとで生きる権利があると主張して、一連の裁判闘争に取り組んで勝利をした。

 そういう中で、国連もそういうことに注目しながら、一九七二年の六月に国連人間環境会議で、人間環境の保全と向上というのが諸国民の権利であるということが宣言をされる。日本国憲法と、それに根差した国民の運動が生み出した権利というのが、まさに世界に通用する普遍的な権利になったんだというふうなことが言えると思うんです。

 問題は、これらの課題に背を向けてきた現実にこそあるということで問題を見る必要があるのではないか。例えば、環境基本法には環境権という文言が、つくるときに盛り込まれませんでした。それから、地球温暖化対策、気候変動の問題について言っても、温室効果ガスを大量に排出している鉄鋼とか電力などの大企業に対して必要な規制がかけられていない。それから、国民の知る権利という点でも、これをじゅうりんして、報道、取材の自由を制限するような秘密保全法すらつくろうとする動きがあるということであります。

 こうした現実こそ検証して、人権保障の憲法に基づく政策実行こそ必要だ、こういう観点が本当に今大事じゃないかと思っております。

 以上です。

岡本(充)委員  民主党の岡本でございます。

 今議論になっております新しい権利を明文化していくべきか否かという話でいいますと、私は、結論からいうと、現行の憲法で十分読める内容が今議論の対象になっているというふうに考えています。

 さまざまな権利をこの憲法に記したい、こういうお話は私も聞いているところでありますが、先ほどの山尾委員の発言とも重なりますが、一方の権利を書き、一方の権利を書かないということになってきますと、これは、書かなかった権利を求める皆さん方からすると大きな失望を呼びますし、また、さらなる加憲についての要請が出てくる、こういう話になってくると思います。

 この憲法に書かなければ重大な国民の損失が起こる、こういう場合に限って明文化されるべきであって、当然のことながら、現行憲法で解することができるというようなものであれば、これは改めて書かなくてもいいのではないか、このように私は考えています。

 例えば先ほどの環境権についても、さまざまなシチュエーションがあるわけでありますが、環境権の侵害というのは、往々にして、個人もしくは法人等が何らかの行為を行うことによりその権利を主張する、もしくは、その権利を行使する段階で別の個人また法人に対してその環境が害されるというケースが多いというふうに解するわけであります。こういった場合にも、この調整というのは、まさに先ほどの言葉にもありますけれども、公共の福祉という観点に立って個人の利己的な人権行使を限定するという立場に立つとすれば、この公共の福祉という言葉を解する中で解決を見ることができるのではないかと思っています。

 例えば財産権についても、財産権は重要な権利だ、こういう話もある一方で、さまざまな財産権の侵害についても裁判等がなされています。一方で、第二十九条の二項の方には、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」こう書いてあるわけでありますから、当然のことながら、財産権の行使だといってさまざまな環境破壊をしていくことは公共の福祉に反するということは、解釈上もできるのではないか、私はこのように考えているわけであります。

 結果として、さまざまなシチュエーションがあって、なかなかこれに適合しないというものが明らかであれば、それは措置をとっていく必要はあるのでありましょうけれども、現時点において、こういった公共の福祉という言葉をしっかり解して、どういう部分に対してはその権利は抑制的であるべきなのか、こういったことをしっかりと議論していくことが、結果として、国民の皆さんが求めているさまざまな権利の具現化につながるのではないか、このように考えておりまして、必ずしも、憲法上明文化するべき課題というのは現時点ではないのではないか、このように考えています。

網屋委員  民主党の網屋信介でございます。

 いわゆる新しい人権につきましては、人権の考え方そのものが時代によって大きく変わってきているというふうに解することができると思います。

 そもそも、憲法が制定された時代に、環境権、プライバシー権、その他、知る権利、アクセス権、そういったものが想定されていなかった時代のものである。これは、時代の変遷とともに、これから将来にわたっても、新しい別の形の人権というのがまた環境に応じて出てくる可能性というのは十分あると考えるならば、特定の人権等々を憲法の中に改正してつくっていくことが適切だとは思っておりません。

 ただ、とはいうものの、新しい人権に関してこれを積極的に認めるということは、これは共通の認識であって、当然ながら将来にわたっても別の意味で法的な措置をしていく、そういった、その時々の環境に応じて人権のあり方を論議しながら各法でつくっていくということが適切ではないかというふうに考えます。

 したがいまして、今の段階で、そう簡単に憲法の改正というのはできるわけではないので、一つ一つの人権について各論的に入れるべきではない。憲法の趣旨としては、先ほど岡本委員からありましたように、公共の福祉という考え方の中でこれを行使していくことが最適ではないかと考えるところでございます。

 以上です。

川村委員  この新しい人権について、また発言をしたいと思います。

 いろいろな時代の変遷の中で、新しい人権を憲法に規定すべきという意見はあると思うのですが、今盛り込まれているような人権というのは、これは長い歴史の中で形づくられて、そのエッセンスといいますか、本当に根本の根本が憲法上盛り込まれているわけであります。やはり、まさに歴史の風雪に耐えて残るべきものが残って、憲法に盛り込まれていると思います。

 新しいものを盛り込む動きも諸外国ではありますけれども、しかし私は、憲法で全く読めないというものでなければ、まずは個別法の世界でしばらくこれを、いろいろなことに対応していく。そうして、そういうものの積み上げの中で、やはりこれは国の基本法としての憲法の中にしっかりと位置づけるべきであるというコンセンサスができるぐらいのところまでにならないと、軽々に新しい人権として憲法の中に盛り込むべきではない、こういうふうに考えております。

 以上です。

浜本委員  民主党の浜本でございます。

 先ほど笠井委員の方からもありましたが、環境権などが国連の一連の動きの中で確立した権利ということでありました。

 その流れの中で、もう一つ、国際健康権という新しい基本的人権の部類のものが二〇〇〇年あたりから出てきている。憲法との関連でいいますと、二十五条の二項「公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、憲法は努力義務で公衆衛生について書いております。

 しかしながら、国際社会の流れの中では、もはや、例えばアスベストやあるいはたばこの受動喫煙の問題、こういった問題を含めて、国際人権規約のA規約の十二条、あるいは女子差別撤廃条約、あるいは児童の権利宣言、あるいはFCTC、たばこ規制枠組み条約、こういったところの国際文書の中で、国際法の中で、全ての者が到達可能な最高水準の身体的、精神的健康を享受する権利としてこの国際健康権という権利が今、国際社会の中では受け入れられておる。

 そういう意味では、憲法が「公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」というのは、もう時代的にはちょっと遅いのではないか、こう思うわけであります。

 したがって、この憲法の審査会がどういうふうな形に流れていくかわかりませんが、いずれにしても、新しい人権の分類の中に国際健康権というものがやはり必要ではないかというふうに私は思っておりますので、意見を表明しておきます。

保利委員  我が党が少なくなっておりまして、大変恐縮でございます。

 いろいろ議論をいただいておりますが、我が党内でもこの問題は随分議論がありました。どういうふうにまとめていくかということを非常に苦心いたしましたが、自由と権利ということを言う裏には、必ず同じウエートで責任と義務というものが伴っていなければならないということから文案を考えております。

 ということは、やはり自由や権利というものを主張するには、その裏には責任があるんだ。必ず、その責任というものを、あるいは義務というものをどう考えるかというのは、国民としては癖をつけていかなきゃならぬ。権利だけを主張するというのではなくて、その裏には義務があるんだということをきちんと考える癖をつけていかなきゃならぬというふうに考えるわけであります。

 そんなことから、この国民の責務というようなところについて、権利、義務というところについて、我が党としては案をつくりました。それは御紹介することはありませんけれども、要するに、裏腹をよく考えてやらないとわがまま勝手ということになるということが非常に多く指摘されまして、そういう文章をつくったということを申し上げておきます。

大畠会長  それでは、この区分については以上で終わらせていただきまして、次の区分に入ります。

 次に、生命倫理、政教分離原則、家族、家庭や共同体の尊重及び知的財産権に関する論点について発言を希望される皆さんは、ネームプレートをお立ていただきたいと存じます。

緒方委員  まず、政教分離原則そして信教の自由について、一言述べさせていただきたいと思います。

 日本では、信教の自由といった言葉を使うときに、信ずることは自由ではないかというところが非常にクローズアップをされます。宗教を信ずることは自由ではないかというところからスタートすることが非常に多いんですが、基本的に、この信教の自由というか政教分離というのは、信じないことの自由から、宗教というものから一旦切り離されて、そして、自由な個人としてそこからさらに信ずる自由が生まれるというのが、少なくとも欧州の信教の自由の闘いというのは、基本的にそういった、教会からのくびきをどう解き放つかというところからスタートしているということがございます。

    〔会長退席、小沢(鋭)会長代理着席〕

 それに比べて日本は、そういった宗教組織のくびきから切り離されようというその前段のところがなく、宗教を信じることの自由だけが強調されるということ、この結果として、何を信じてもいいじゃないか、それは自分の自由だというところだけが強調されてしまっていて、それが社会に出てくるとき、例えば、よく裁判になっている、靖国神社の話もそうなのかもしれませんし、玉串料を納める云々の話もその一つなのかもしれませんけれども。基本的に、宗教を信じないことの自由というのをもう少し強く意識するとき、政教分離というのは厳格になされるべきであり、それに反する、それと背馳するような行為というのは、基本的に抑制的でなくてはならない。政教分離の厳格な適用というのが私は必要だというふうに思います。

 そしてその次、家族、家庭や共同体の尊重ということでありますが、これも今の話と非常に似たようなところがございまして、かつて、戦前、家族、家庭共同体というもののくびきが非常にきつく、国家と個人の間にいろいろな中間団体が存在をして、それがいろいろな意味で個人の飛躍、跳躍というものの阻害要因となってきた。それを戦後の憲法において、個人の尊重、そして、いわゆる家社会からの解放ということでやってしまったら、それが今、私も現状は行き過ぎているところがあると思います。個人の主張が非常に強い、強過ぎるということは日本の社会にあると思いますが、まさに極端から極端に振れ、そしてまたそれをどう戻すかという議論になるときに、それを憲法に書き込むことで実現するのが最も正しいのかどうかということについては、これは議論をされるべきであると。

 戦前の家社会が非常に強かった社会、そして今の個人が非常に強くなってしまった社会、両方、極端に振れた結果として、若干おさまりが悪いところに今の日本社会があるとするとき、それをもう一度、家族、家庭や共同体の尊重ということを憲法に書き込むことで実現するのがいいかどうかということ、私は若干の疑念を持っています。

 そして最後、これは、生命倫理というか、どちらかというと平等の文脈で語られるものかもしれませんけれども、民法七百七十二条の婚姻の問題について、男性と女性の間に差があるということについては、今、科学技術が非常に進んできている、そして、結局あれは、子供が誰が親かわかるわからないの話でああいった規定が盛り込まれているわけでありますが、科学技術も進んできており、こういったことについて男女で差を設けることは必要でない、男女平等という観点からもああいった規定というのは見直すべきであるということを述べさせていただきまして、発言を終えさせていただきます。

 ありがとうございました。

    〔小沢(鋭)会長代理退席、中谷会長代理着席〕

小沢(鋭)委員  民主党の小沢鋭仁です。

 二十四条に関連して、家族の問題を憲法に設けるべきだ、こういう意見を申し上げたいと思います。

 御承知のように、日本国憲法には家族という言葉が入っておりません、我が国の国民性といいますか、国民意識の中では、家族というものを、ある意味では日本の国民は大事にしてきている、こういうふうに......(発言する者あり)コンセプトとしてしっかり含まれていない、私はこう思っておりまして、家族というものを大事にする、こういう話を思っていると思いますが、現実にこれは、例えば家族に対する手当の問題とかそういったことを考えると、日本の国というのは、例えば予算上の話で考えれば、先進国の中で最も低い国に分類されるわけであります。

 そういった観点で、我々民主党は、家族という話を大事にしなければいけないし、それに対するバックアップも政治としてしっかりやっていかなければいけない、さらに言えば、例えば子育てという話は、これは家族とそれから社会全体、ともにしていかなければいけない、こうした理念をもとに、子ども手当、こういうような話も提案をしてきたところでございます。

 しかし、そういった話が憲法の中では希薄である、こう私は思っておりまして、家族という話をどういう形で憲法の中に書き込むのか、私は、大いに議論をすべきだということで、新たな提案をさせていただきたいと思います。

保利委員  今、家族のお話が出ましたが、私どもが党内でいろいろ議論したときに全く同じ議論が出まして、家族というものをもう少し強調した方がいいのではないかということで、家族に関する条項というのを考えてみたわけであります。具体的な改正案をここで紹介するということにつきましては、クレームがつく可能性がありますので余り言いたくはないんですけれども、こういうふうに書いてあります。「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」こういう文言でわかりやすく書いてあります。

 ただ、私は、このことを考えますと、明治憲法の中でこんなことは余り書いていなかったんだけれども、明治憲法というのは極めて法律的に書いてある。しかし、そういった徳目条項については、教育勅語の中にうまく表現されているのは御存じだと思うんです。ですから、教育勅語と明治憲法というのはセットになって、何といいますか、何とも言えないいい感じを出しているというふうに私は理解をしておるわけであります。

 それから、宗教の問題についてちょっと出ましたので、一言申し上げておきたいと思います。

 宗教の問題というのは、日本の国柄をやはりきちんと考える必要があるだろう。日本の国というのは、どうやって出てきて、どういう歴史をたどってきたのかというようなことをよく考えてみる必要があるだろうと思います。

 聖徳太子は、皇室にまつわる方でありますが、十七条憲法の中で、あつく三宝を敬えという言葉を言っておられて、そこから仏教というものが日本に入ってきた。その仏教に対しても非常に寛容であった。同時に、太陽神をあがめる神道の伝統というのも持ち続けてきた。

 そういう国柄だということから、いろいろなしきたりとかそういうものが出てきている。そういうしきたりを否定するというのは、日本民族性を否定してしまう可能性もあるので、社会的に許される範囲ならば、そういった習慣的になっていることをやはり許すべきであろうというような観点から、そこら辺は非常にやわらかく書いてあるわけでございます。

 日本は、一神教の国とは違いますから、多神教とまでは言いませんけれども、いろいろな神々の存在を許しているというか、認めているというか、そういう非常に柔軟な民族であるという立場に立ってこの問題を考えていかなきゃならないんじゃないかなと思います。

 以上です。

    〔中谷会長代理退席、会長着席〕

山尾委員  山尾です。

 今の議論を聞いていて、ちょっと一言だけ申し上げます。

 家族は自然で基礎的な単位であるということは、私もうなずけるところはあります。

 ただ一方で、そういった血縁を通じての家族というきずなをライフスタイルとして選択しない人もいるし、あるいは、選択したくても、さまざまな事情でそれがかなわないという方もやはりたくさんおられるということは、もちろん申し上げるまでもないことなんですけれども、やはりそうした方に対して、憲法というのは大きな国の根幹のメッセージですので、共同体としてみんなでこの国をつくっていこうということであればともかくも、家族、家庭の尊重、これが基礎なんだということを高らかにうたうのは、私は慎重であってほしいということを一言だけ申し上げます。

川越委員  川越孝洋であります。

 今の山尾さんの意見と全く一緒なんですけれども、家族を単位に物を考えていくとなれば、必ず戦前のような父権というものが、父の権限といいますか、家族の、家長たるものの権限というものが非常に強まってくるだろう。しかし、もう戦後六十五年、その家族制度というものが、これは好むと好まざるとにかかわらず、まさに崩壊してしまっておる。これをどのようにしていくかということは、もう一度考え直していかねばならぬところもあるかもしれません。

 しかし、門地からの解放とか、いろいろなことが出てきている中で、家族のみを取り上げるということは非常に難しいのではないかと思っております。

 実は、漫才師の河本さんですか、それが、お金を稼ぎながら、おふくろさんが生活保護をもらっておったということを徹底的にたたかれておりますが、これで、恐らく本人自身がまた生活保護を受けるようなところに陥っていくのではないかなということを私も危惧しておりますけれども。

 大きな家族の中で、そういういわゆる父親の権限、そういった物事全てを、いろいろまとめていくためには権限も必要ですから、そういったものまでやっていくということになると、これは大変な統制国家への道に進むのではないか。そういう感じもいたしますので、そこら辺は慎重な論議が必要であろうというふうに思っております。

 以上です。

大畠会長  それでは、この第三区分での御議論は以上といたしまして、第四区分に移ります。

 この第四区分では、今まで議論の対象としていたところのほかの条文等についての御意見を賜ります。

小沢(鋭)委員  民主党の小沢鋭仁です。

 先ほど、私が法のもとの平等に関して意見を申し上げた点について、柿澤委員、あるいはまた服部委員の方から御意見を賜りました。そういったことで、補足を申し上げておきたい、こう思います。

 一つは、柿澤委員の方から、柿澤委員並びにみんなの党というのは、一票の格差、それが最重要なんだ、こういう御指摘がありました。私も、当然、一票の格差の問題というのは極めて重要な、政治的な課題である、こういうことは思っておるわけでありますが、アメリカのいわゆる一票の格差の判例といいますか、例が示されました。しかし、そのアメリカであっても、例えば上院議員というのは各州二名、たしかこういう話になっているわけでありまして、いわゆる選挙制度によって、これは服部委員がおっしゃった話でありますが、何を代表するかによって、そこのところは必ずしも人口比だけではない、こういう制度が各国あるわけであります。

 我が国の選挙制度にしたって、ある意味でいいますと、行政区分によってそれは示されているわけで、そこのところを、全て一律に人口比だけという話で果たしていいのかというのが私の問題提起であります。

 服部委員は、それに加えて、少数意見といいますか、少数民族といいますか、そういった話の尊重、こういう話もあるではないか、こういう意見をたしかおっしゃっていただいたと思いますが、そういった議論を、法のもとの平等、特に、政治的な、選挙制度のもとにおける法のもとの平等というのは一体どうあるべきなのか、こういう議論を行っていくべきだ、私は、こういう提案であります。

 必ずしも柿澤委員の話に全面反対というわけではなくて、そういう議論を行った上で、やはり国民的にそういう合意ができるのであればいいわけでありますが、現行の違憲立法審査権というのは、御案内のとおり、提訴されて、そして、なおかつそれを裁判所が判断する、こういう形になっていて、その前段階で我々が政治的に、まさに国権の最高機関として、どういう制度、どういう代表を考えるのかという話があってしかるべきだ、私はこう思っております。特に、また例の具体的な問題で、基礎的配分の話を申し上げますと、これは過渡的制度であるという最高裁の判例になっているわけでありますが、それはそうではないと。

 私は、先ほども申し上げましたように、いわゆる地域間格差の解消というのが立法的な意思だ、こういう話を明快にすべきだと思っておりますし、そういう議論をしっかりやりたい、こういう意味でございます。

笠井委員  第三章は多岐にわたりまして、論点はいろいろあると思うんです、検証ということはあると思うんですが、先ほどのことも若干含めながら、その他のことについて述べたいと思うんです。

 保利幹事から、今ごろ明治憲法と教育勅語が引き合いに出されるというのは驚きました。それで、やはりどういう教訓と反省の上に憲法ができて、戦後の日本が出発して今日に至っているのか、その根本が問われているというのは、率直に私が思った点であります。

 そういう点でいえば、例えば二十四条でも、家族関係における個人の尊厳と両性の平等ということで、家族ということもきちっと位置づけられて話があるわけです。むしろ、婚姻という問題でいえば、結婚したくてもできないというような経済的制約という問題、そういう問題についても、政治の課題あるいは現実の課題というような問題があると思います。

 それから、二十六条も、これだって、教育を受ける権利との関係でいえば、先ほど御指摘がありましたが、高過ぎる授業料の問題、無償化の問題というのも現実との関係で検証が必要だろうと。

 浜本委員からも先ほど、健康権ということで、私も受動喫煙の問題では、非常に重要だと思って御一緒させていただいていますので、思っていますが、これも、ある意味、十三条、二十五条のもとでやはりどうなのかということで、そういう検証としてやっていくということで私はできるんだろうとは思っています。

 問題意識は共通なんですが、しかし、では、変える必要があるかというと、そういう問題ではないんじゃないかというような思いなんです。そのことはちょっと若干申し上げておきたいと思います。

 その上で、市民的、政治的自由の問題について述べておきたいと思うんです。

 冒頭にも申し上げたんですが、日本はやはり、すぐれた人権規定を定めた憲法を持ちながら、人権保障の実態というのは、例えば、市民が自由にビラを配ることもできない、あるいは、公務員の場合は、休日でさえビラ配布の自由も認められない状態にある、こういう問題がある。あるいは、東京都や大阪市における日の丸・君が代の押しつけなど、思想、良心の自由を抑圧する実態がありながら、それを問題としないようなことがあるのはどういうことなのかというのは、問題提起としては言いたいと思うんですね。

 もう一つ、先ほど来議論がありまして、この区分だと思ってとっておいたんですが、選挙制度の問題です。

 憲法でいえば、国民主権原理と法のもとの平等原則、それから国民の参政権を定めているわけで、その点からいうと、やはり九六年に導入された小選挙区制というのが、大政党有利に、三割台、四割台の得票率でも五割、六割の議席を獲得できるという選挙制度として、国民からも厳しい批判を浴びているし、今、国会の中でも、多数の政党がというか、ここは批判的だということだと思うんですね。

 一票の格差ということなんですけれども、これは、つまり選挙権の平等の問題だと思うんですが、私は、選挙制度で問われなければいけないのは、投票結果に対して民意がいかに正確に反映されるかどうかということだというふうに思います。

 つまり、投票価値の平等というのが保障される選挙制度への抜本改正が必要だ。そのもとできちっとやれば、根本的に一票の格差というのは解消するわけですから。だから、そういうことこそやはり憲法の要請だということについて考えていることを強調したいと思います。

 以上です。

緒方委員  一票の格差についてなんですが、これは、この第三章のところで議論するのが正しいかどうかというのはありますが、そもそも、衆議院も参議院も一票の格差がきちっと解消されるべきであるというふうには私は思いません。それは、それぞれのハウスが何を代表しているかということを憲法に明確に書き込むことによってこの問題は解消できるのではないかというふうに思います。

 先ほどアメリカの話がありました。一対〇・九九三でも違憲判決であったという話であります。そのとおりだろうというふうに思います。その一方で、先ほどありましたとおりですが、上院では、人口四千万人のカリフォルニア州と人口五十万人のワイオミング州、それぞれ二人出しているということで、一票の格差でいうと八十倍というような状況がある。

 何を代表しているかということについて、しっかりと衆議院と参議院で明確にすることがまず必要であって、私は、衆議院は、それこそ、民衆というか国民を代表するということで、ここは厳格な一票の格差を解消する方向でいけばいいと思いますし、逆に、参議院というのは、場合によっては、アメリカのように、都道府県なのか何なのかわかりませんけれども、そういった国土を代表するその代表制としての参議院、そういう考え方もあるのではないかと。

 いずれにせよ、衆議院と参議院で一票の格差が平等に確保されなくてはならないというふうになるというのは、それぞれのハウスの独立性を考えたときに、必ずしも適切ではないのではないかと思いますし、それは、これは別の章のところで議論すべきものだと思いますけれども、憲法の中にそれぞれの院が何を代表しているのかということを書き込むことでこの問題を解消すべきであろうというふうに思います。

 以上であります。

近藤(三)委員  自由民主党の近藤三津枝です。

 先ほどの党を代表した発言では、時間の関係で十分に説明できませんでした論点、すなわち、論点表の下段の、上記以外の条文に係る論点について、自民党の日本国憲法改正草案を御紹介する形で補足説明をさせていただきます。

 まず、第十四条の法のもとの平等についてです。

 現行憲法では、人種、信条などの差別を禁止する例示が挙げられていますが、自民党の憲法草案では、特に障害の有無を追加しました。障害者差別禁止の思想を明確にする観点からの改正です。

 次に、第十五条の公務員の選定、罷免権に関する条項についてです。

 先ほども簡潔に御説明した件ですが、自民党の憲法草案では、第十五条の第三項に、「日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。」と定め、選挙権を持つ者は日本国籍を有する者に限定することと明記しました。

 このことは地方自治の章にも関係します。現行憲法の九十三条第二項の、地方自治体の首長や地方議会の議員の選挙権についても、「当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。」という条文としました。これにより、第十五条との平仄、整合をとったものです。外国人定住者などへの地方参政権の付与が国民主権に照らして憲法違反となることを明らかにいたしました。

 次に、第二十六条第三項に、国の教育環境の整備義務に関する規定を新設しました。

 具体的に申し上げますと、「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。」と規定しました。

 これは、教育立国を標榜する我が国において、教育の持つ重要性から、国民が充実した教育を受けられることをより実効的、確実なものとするために、教育環境の整備を憲法上の国の義務として定めたものです。

 最後に、第二十八条第二項に、公務員に関する労働基本権の制限の規定を自民党の憲法草案に新設しました。

 具体的には、「公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。」と定めました。

 現行憲法下においても、国家公務員の労働条件に関する人事院勧告などの代償措置が講じられていることを条件として、公務員の労働基本権は制限されています。このことについて憲法上も明文化したものです。

 補足説明をさせていただきましたが、あわせて、一点質問をさせていただきます。

 冒頭の意見表明で、在外国民の保護についての規定を憲法に盛り込むべきであると申し上げました。

 グローバル化の進展により、仕事、留学などで海外に在留する日本人は、平成三年の六十六万人、平成二十二年の統計なんですが、その倍近い百十四万人にも増加しています。また、海外に向かう日本人旅行者、昭和六十年には四百九十五万人でした。平成二十二年の数字ですが、千六百六十四万人と、三倍以上になっています。さらに、海外との交流、連携を深めるために、日本政府もグローバル化を促す政策に力を注いでいます。

 一方、国外で日本国民、邦人が戦争、内戦、テロなどの危険にさらされるリスクも高まっていると言えます。

 このようなことから、いざというときに在外国民の保護を国がしっかり行うことは、国際化の進展の上でも重要な憲法上の措置と考えます。

 そこで、衆議院の法制局橘部長にお聞きします。各国では邦人保護について憲法上どのような規定が設けられているのか、説明をお願いします。

橘法制局参事  近藤先生、御質問ありがとうございます。不十分かとは存じますが、手持ち資料の範囲内でお答え申し上げさせていただきます。

 御指摘のような在外自国民の保護規定に係る憲法条項を有する国としては、お隣の韓国や中国、あと、ポーランドやルーマニアなどがございます。

 例えば、大韓民国憲法では、第二条第二項で、「国家は、法律の定めるところにより、在外国民を保護する義務を負う。」というふうに、国家の保護義務として定められているようでございますし、他方、例えばポーランド憲法では、その第三十六条におきまして、国外に滞在している間、ポーランド市民は、ポーランド共和国による保護を受ける権利を有するというふうに、国民の権利という形で定められているようでございます。

 以上でございます。

川越委員  二回目の意見を述べさせていただきます。一票の格差の問題であります。

 確かに、今、都市部の方から見れば、一票の格差が余りにも大きいではないかということで主張されますし、これも裁判で違憲状態ということになっております。しかし、先ほどの緒方林太郎議員の考え方と、ちょっと僕の方は衆議院の方で考えるんですが、それぞれの国会議員というのは、その地域を代表し、その地域の人たちの生活向上のために国会の場に来て立法をし、考えていくということだと私は思っております。

 東京都の国会議員の選挙区が、面積は都会議員よりも狭いんですね。ところが、一方、翻って過疎地に行くならば、例えば、私はずっと長崎三区の山田、個人名を出して申しわけありませんが、ちょっと事例ですのでお許しください、選挙区で手伝いをしておりました。この端と端を全部結びますと、九州の本土が全部入るぐらいの広さがあるんです。

 そして、島々、壱岐、対馬、上五島、島にはそれぞれの文化、独特のものがあります。また、これまでの離島政策により、離島から早くみんな本土の方に来いよというような政策をとったのではないかとすら思われるような過酷な条件が付されておりました。船で行く際にも、時間はかかる、費用はかかる、またガソリン代も高い。そういった問題を一つ一つやはり解消していくために、私は議員というのはあるんだと思っています。

 したがって、私としては、選挙区の面積、またその中の人口、いろいろなものを加味して決めるのが平等ではないかというふうに思っておりますので、意見として申し上げさせていただきました。

 それからもう一つ、先ほど鈴木克昌委員の方から、今の働き方の中で非正規社員、そういったものがある、これで本当にいいのかということを述べられましたけれども、そのために今、日本の未婚率がどれだけ高いかという結果にそれがあらわれております。日本人の中に、やはり経済的にしっかりと、その人間がずっと働いていけるかいけないかというのが大きな結婚の条件であることは、娘の子を持った親としたら、やはりそのことを考えます。それと同じように、子供たちもそのように考えるだろうと思います。

 その子供たちが結婚もできないような今のいわゆる雇用形態、これでいいのだろうか。そうしていくと、いつの間にかこの国というのは、本来の日本国民は減っていって、そして、外国の労働者に頼らなければならない。そうしたときに、どういう国になっていくんだろうか、そういう危惧さえ持っておりますので、そのことを申し上げさせていただきます。

浜本委員  民主党の浜本です。

 先ほどの、第十四条の法のもとの平等のところで、近藤議員からも発言がありました、障害の有無、障害者の差別、これはやはり入れるべきであろうと私も思いますが、もう一つ、この中にぜひ入れるべき問題として、年齢による差別、例えば、平成十九年、我が国でも、たしか雇用対策法でしたか、年齢による雇用の差別を禁止するということで、法律が改正されているはずであります。また、EUは二〇〇六年に、年齢による差別の禁止という指令を出しておりますけれども、そういう観点から、この年齢による差別というものをやはり入れるべきであろうと思います。

 橘部長にお伺いしたいんですが、こういう年齢による差別の禁止をしている憲法、他国の憲法で、たしかアメリカは入れておったと思うんですけれども、そういう事例があればひとつ教えていただきたいと思います。それが一点。

 それから、第三十六条、拷問及び残虐な刑罰の禁止、この中で、服部議員の方からも死刑の廃止のお話が少しばかりありました。

 今、この死刑の廃止の問題についてどうこう議論をするつもりはありませんが、今から六十四年前の昭和二十三年の最高裁判所における死刑の合憲、違憲の判決の議論の中で、最高裁判所の裁判官たちの補充意見の中で、将来、国会がこの死刑という問題について議論をして、もしそのときに死刑が残虐な刑罰だということであるならば、それはそれに任せるべきであるというふうなことが言われておりました。

 その一方で、この昭和二十三年の最高裁判所の判決で、死刑が合憲であるというその根拠は、つまり、執行方法が残虐であればこれは残虐だ、死刑そのものは、刑罰としてこれは残虐でないと言っておるわけですね。つまり、火あぶりとか串刺しとか、こういうものはだめだけれども、しかしながら太政官布告による絞首刑はいいんだ、こういうふうに当時言っております。

 しかしながら、今、世界の、例えばアメリカ合衆国でもそうですが、アメリカ合衆国は十七州が死刑を廃止しておりますけれども、あと三十三州は残しておるわけですが、その州でも、絞首刑をやらずに、電気殺もせずに、もはや今は薬殺、薬によって死刑をする。絞殺そのものは、つまり首つりは残酷な刑だということになっておるようであります。

 したがいまして、我々は、きょうは憲法の議論のところでありますから、余りこのことについて言うことがいいのかどうかわかりませんが、やはりそのあたりの執行方法についても、国会の我々がこのことについては考えるべきであろう、こう思っております。

 最後に、三十七条、刑事被告人の諸権利のところで、第三項「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。」と。

 これは、事実は、最近法テラスで、たしか被疑者の段階でも国選弁護人をつけられるのかな、まだいけていないですかね。ちょっとそれは、では橘部長にお伺いしますが、記憶がちょっとはっきりしませんが、やはり、被疑者の段階で大きな問題が、冤罪が起こっているわけですね。そういう意味では、憲法でもやはり、刑事被告人じゃなく、刑事被告人も当然ですが、被疑者段階でも資格のある弁護人を国選で付することができる、こういうふうに憲法は改正すべきではないか、こう思っております。

 以上です。

大畠会長  浜本委員からの質問は、大変機微に触れる問題でもありますし、また、法制上も非常に重要な問題であろうと思いますが、法制局の方で答えられる範囲内でお答えをいただきます。

橘法制局参事  浜本先生、御質問ありがとうございます。

 一点目の年齢による差別につきましては、勉強不足で、今資料が手持ちにございませんので、また勉強して、資料を届けさせてください。

 あと、二点目については、御質問ではなかったかもしれませんが、現行憲法下における死刑の問題につきましては、先生御承知のとおり、三十六条の拷問及び残虐な刑罰の禁止に当たらない、先ほどおっしゃいましたように、火あぶりとかそういうものではなく、絞殺という形はこれに当たらないという判例が出ております。

 あと、死刑につきましては、そもそも憲法三十一条が、何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命を奪われないという形になっておって、死刑制度を前提とするような条文になっているということも、死刑制度の合憲性の論拠に挙げられているかと存じます。

 第三点目、三十七条の刑事被告人の権利に関しましては、三十七条に規定されております被告人につきましては、公訴を提起された者をいう、刑事被告人の意味と同じであるということですから、先生御指摘のとおりの、憲法解釈上はそのような形で解釈されていると存じます。

 以上です。

保利委員  先ほど家族の問題を言ったときに、家族を大事にするということだけを申し上げたわけですが、それは強制するものではありませんで、個人の自由というのがその前にありますので、家族を構成しなきゃならぬという、そこを強調し過ぎているわけではありません。

 ただ、我が党内には、家族という単位を大事にしなきゃいけないよという意見が女性の方からもかなりありましたものですから、こういう立案をしたわけでありまして、これを強制するとか、そんな気持ちではありません。

 それからもう一つ、このことをお話しするときに、明治憲法と教育勅語の問題を言ったら、笠井さんから何かクレームみたいな話がありましたけれども、こういうことをやはり勉強した上でこれからの社会というのを考えていくべきじゃないかな、そういう意味で引用させていただいたということでありますので、決して、そこへ復活させようとか、そんな気持ちで言ったわけではありません。御党の立場だからこれはいろいろあるんでしょうけれども、私は、そういう気持ちで申し上げさせていただきました。

 それからもう一つは、先ほどから小沢先生とかあるいは緒方さんからも話があった一票の格差の問題ですが、私がよくわからないのは、最高裁判所が、衆議院においては一対二以下である、それから参議院においては一対五以下である、この判断はどうしてされたのかがよくわかりません。

 それで、考えてみると、アメリカの制度について言及がありましたが、私どももそのことを思っております。だから、アメリカの場合は、上院は地域代表みたいな格好になっておりますし、その地域代表は人口とは関係なしにつくられておるということでありますので、そういったところをどう考えるのか。イギリスの制度は、衆議院と貴族院、昔の日本の形そのままでありますので、これもまた特別な制度だというようなことをいろいろ勉強してみる必要があるだろうと思います。

 そういう意味で、このテーマは、衆議院と参議院が一緒になって議論した方がいいんじゃないかなという感じがいたしております。もっとも、一院制を主張される方は、そういうことがあるから一院制だというような話もあるんですが、私どもは一院制という立場はとらずにおりますので、参議院と衆議院が話し合いをする場というのをやはり将来つくるべきであるなということを申し上げたいと思います。

 それからもう一つ、奴隷的拘束という言葉はどうも日本人の感性に合わないということから、奴隷的拘束は、私どもの案では外しております。別の言葉を考えております。そのことだけ申し上げておきます。

 ありがとうございました。

大畠会長  それでは、予定の時間等もございますので、現在希望をされてプレートを立てている委員のみの御発言で、きょうの一つの区切りをしたいと思います。

笠井委員  発言というよりも、保利幹事に名前を挙げていただいたので。

 保利幹事とは、いろいろな機会に私も議論させていただいていますので、我が党の立場を御理解いただいた上での御発言というふうに受けとめておるんですが、ただ、この問題は、共産党の立場とかという問題で私は言ったつもりはないということが一つ。

 それから、やはり、少なくとも我々は国会議員で、しかも憲法審査会におりますので、そういう意味でおっしゃったんじゃないとは思いますが、明治憲法あるいは教育勅語については、その意味や経過、それから、どういう形でその問題を今の時代に生かし、生かすというか何というか、つまり教訓としてきちっと踏まえるのかということについては、当然、我々は勉強していることだと思いますし、私自身も勉強しているつもりだということだけ申し上げておきます。

小沢(鋭)委員  私も、私の名前が出ましたので、二点申し上げておきたいと思います。

 まず、家族の話に関しては、先ほども申し上げましたように、この憲法の中には、家族ということに関するコンセプトはありません。まさに個人と家族の、ある意味で関係をどう考えるか、こういう位置づけはありますが、家族そのもののコンセプトはないということでありまして、これも、先ほどの保利先生の御発言のように、別に強制するとかいう話ではありませんけれども、私は、ある意味では、社会の基礎的単位としての家族というものに対して、憲法が何らかの意味を示すことが必要ではないか、こういう観点で申し上げたということが一点。

 それからあと、法のもとの平等に関して、追加して申し上げておきたいんですが、先ほど来いろいろな事例が出ているように、代表制の問題によって、人口比ではない制度というのがいっぱい存続しているわけです、世界各国でも日本でも存続しているわけです。ですから、今のこの憲法十四条の法のもとの平等というのは、一体、人口比だけでいいんですか、こういう問題提起であります。

 それに加えて申し上げると、これはまた別の機会に議論すればいいんですが、先ほども申し上げましたように、違憲立法審査権のあり方という話が、こうしたすぐれて政治的あるいはまた制度的な問題に関しても、提訴をされて、さらにはまた最高裁の中で判断されて、それがある意味では最終決定になっているという意味は、これは調査会の中でもずっとかねてから問題が指摘されておりました。憲法裁判所というふうな仕組みをつくって、政治的にも司法的にも、あるいはまた学識経験者も入って、そういう形での憲法判断がなされるべきであって、現行のような形で、すぐれて人口比だけで全てが決定されるというこの今のやり方そのものは、私は限界に来ているのではないか、そういうことを申し上げておきたいと思います。

大畠会長  それでは、予定の時間がそろそろ参りましたので、本日の自由討議は以上で終わらせていただきます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

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